長い文章ですので、できるだけ目に優しい環境でお読みいただければと思います。
「今、ストで電車止まってるみたい。解除は明日か明後日か、だって」
「——ああ、そうみたいだな」
残念だけど、止まってるなら仕方ない。寄り道案は選択不可になったけど、全て行動不可になったわけじゃない。次の案を考えるだけだな。
「計画変更、だね」
「だな」
彼女は首を傾げて微笑む。そんな、ちょっとした言葉のやり取り。そして彼女は、バッグをかけ直して改札の外に向けて歩いていった。俺は、何となくそのピンク色の髪とアイスブルーの瞳が印象的で、しばらくその姿を追っていた。
だけど、遠ざかるにつれて、ふと目に入る。——スカート、短い。……い、いや別に変な意味じゃなくて。ただの事実として。うん。
それにしても! ——ストが起こること自体は知ってたけど。先週から計画してた? 何だそれ。そんなに計画的にストってするもんなのか?
まあ、こんな事態も社会勉強。さっき言ってた通り、計画変更。そう、まわり道にも意味はあるんだ。——というより、きっとまわり道なんかじゃない。せっかく大きな都市に来たんだし、列車ばっかり乗ってないでもっと街並を散策しろってことだな。
*
——ストライキだなんて、困ったな……
駅員さんとの話を終えて、諦めて駅の外に向かう。だけど、頭の中では「今からどうしよう?」って思ってる。
短期留学を終えて、帰る途中のことだった。
コース修了から自分の大学の新学期開始まで日数もある。せっかくだから——ってことで、ちょっとした小旅行を計画した。ううん、計画、っていうほどでもないかな。気ままに、色んな景色を見てみようと思って。
行きは特急列車ですぐに移動したけど、帰りは鈍行列車でまわり道。途中どこかで泊まったり、見所を見て回ったり。留学だってできたんだから、一人でも旅行くらいできるよね…? ——そう思いついて、チケットを変更した。
——そんな気ままな小旅行を始めたと思ったら、ここでまさかのストライキ。列車を乗り継いで行こうとしてたけど、ここで一旦ストップ。
ストなんて確かによく起きてるけど、今このタイミングで起きるなんて思わなかった。なんでその自信があったのか、自分でもわからないけど……。
でも。
”計画変更”。その言葉が浮かんでくる。そう、さっき話した通り。ちょっとしたアクシデントはあっても、柔軟に対応すればいいってことだよね——って、さっき改札で見かけた男の子を思い出す。
あの時、駅は閑散としててほとんど人がいなかった。遠くからの電車の到着はするけど、出発はしない。駅員さんが言ってた通り、前もって案内されてた全面ストライキだから、きっとみんなが知ってた。だからお客さんも少なかったんだな、みんな別の手段でどうにかしてるのかな、じゃあ私はどうしよう、とりあえず改札出て……それで——
予定外のことに戸惑いながら、振り返った。そしたら一人、私の後ろに並んでる人がいた。焦げ茶色の髪、動きやすそうなパーカーを着てて、バッグを背負ってて。いわゆるバックパッカーみたいな男の子なんだけど、そのきょとんとした表情がなんだか微笑ましくなっちゃって。きっと彼も列車が止まって困ってるんだなって思ったら、駅員さんに聞いた話を教えてあげなきゃって思った。
『今、ストで電車止まってるみたい。解除は明日か明後日か、だって』
『ああ、そうみたいだな』
あれ? 思ったほど困ってなさそう。私と違って、結構淡々とした反応してる。そんなことじゃ慌てないのかな? でも、予定が変わっちゃったことには変わりないよね。
『——計画変更、だね』
そう言うと彼は、まるで何でもないことのように、笑う。
『だな』
端的で、爽やかな答え。笑顔で首をすくめながら言うから、私も笑った。結構、柔軟な人なのかな?
交わしたのは、そんな短い応答。なんだけど、妙に楽しい気持ちになって、戸惑ってた気分が薄らいだ。なんだろう。誰かに似てるような、温かい懐かしさ。
……誰だろう? 誰に似てるんだろう? ——考えたけど、すぐには思いつかない。
でも、うん。思いついてもつかなくても、彼のおかげで気分転換できたことは確か。予想してないストライキに驚いたけど、私も柔軟に考えなくちゃ。鈍行列車に乗るってことは、そういうアクシデントもあるんだもんね。予定はズレたけど、そこまで急いでるわけじゃないんだし。元々そういう旅行をしようと思ってたわけだし。
うん、そうだね。柔軟に行こう。
幸いにして観光案内所は開いていたから、いくつかパンフレットをもらって、読むために近くのカフェに入った。駅のすぐそばだけど、人も多くない。おはようございます、とお店の人と短い挨拶を交わす。
「何になさいますか?」店員さんの笑顔、素敵だな。いい雰囲気で、気持ちが落ち着く。
「じゃあ、カフェオレをお願いします。——朝だからか、空いてるんですね」
「ストライキだからですねえ。いつもは駅の利用客が多いので、この時間でももう少し人が入っているんですけど」
「そっか……私はストライキのこと知らなくて、びっくりしちゃいました」
「あ、だからお疲れに見えたんですね」
「そ、そうですか?」
「少しだけです、大丈夫ですよ」カウンターに、マグカップが差し出される。「カフェオレ飲んで、ゆっくりしていってくださいね」
ありがとうと言って、テーブルにつく。温かいカフェオレがすごく美味しくて。一口飲んで椅子の背にもたれると、身体の中に溜まっていた息がふう、と自然に抜け出ていくようだった。
街の観光パンフレットを開いて、そして地図を見る。……今いるのはここ、近代的な建物と古い街並が共存して、たくさんの交通網が集まる、大きな街。ストで止まってるとしても、いざとなれば家に帰る手段はいろいろありそう——
そんな風に考えたら、急に家のことを考え始めた。そういえば、随分家に帰ってない気がする。それに、みんなにも会ってない気がするな——
みんなの顔が頭に浮かんでくる。お姉ちゃん、お父さん、お母さん、スノウ、ホープくん、ヴァニラ、ファング、サッズさん、ドッジくん、ガドー、レブロ、ユージュ、マーキー……みんな、元気かな。今までは、あまりみんなのことを思い出さなかったのに。
……ううん、違う。最初は少し、ホームシックになったんだ。
出発の時は、駅に見送りまでしてもらって。お姉ちゃんにもみんなにもたくさん励まされた。
だけど、だからこそ。みんながいなくなって、いざ一人で電車に乗った時は、"ひとり"だってことが、より強く感じられて——前だけ見ようっていう気持ちだったのが、急に不安になった。何とか現地の寮に着いたけど、そこでも同じ。すごく心もとなくて、私、本当にこれから大丈夫なのかな——なんて思って。また、"何か"にひきずりこまれるような気分になった。
『もしもし? ……着いたよ、お姉ちゃん』
別にメールでもいいはずなのに、わざわざ電話をかけて。少しだけでも、声を聞きたくなったの。
『よかった。そっちはどうだ?』
心配して、聞いてきてくれる。嬉しくて、だけど、寂しくて、本当のことを答えられない。聞きたいことも、聞けない。お姉ちゃんは元気、なんて。みんなはどうしてる、なんて。そんなこと聞いたら、もっとみんなに会いたくなる。今すぐにでも。だから。
『うん、大丈夫だよ——』
泣きそうな声を何とか抑えて、電話を切る。だけど、本当に私なんかが足を踏み出してよかったのかなって——言葉にならない思いが心の中に残ったままで、……つい、泣いちゃったりもしたの。
——だけど、また、あの声が聞こえたから。『セラなら、できるよ』って……——
実際、ホームシックにかかってたのも、短い間だった。ホームシックになり続けてる暇なんて、なかった。
足を踏み出すのが怖かったのが嘘みたいに、留学先での勉強が、すごく勉強になった。
途上国や戦争の続く国の子供たち、難民の子供たちに向けた教育の現状——教育を受けられない子供たちの数、それによって起こっている諸問題の整理。それから教員側の質の問題だとか、具体的な教育手法、それと教員の管理、リーダーシップ、地域社会との協力——おさらいに近いものも、知らなかったことも、改めて聞くことで頭の中を整理できたし、すごくためになった。
でも、勉強になったのはそれだけじゃない。同じように各国から留学してる人達とも仲良くなって、いろんなことを話して——それで、痛感したんだ。
お姉ちゃんや、スノウや、ホープくんだけじゃない。世の中、たくさんの人が頑張ってるんだって。しかも、自分が行きたい分野で。私はまだその分野に入ったばかりだけど、もっと経験やキャリアを積んでる人も、知識の再整理のためにコースを受けてたりする。逆に私より若いのに、しっかりした計画を持ってその道に進もうとしている人もいる。私も頑張らなきゃって、思わせてくれた。たくさん、刺激をもらった。
クラスのみんなとは連絡先を交換しあって、コース終了後もやり取りして情報交換できそう。
もしかしたら、ただの短期留学って言う人もいるかもしれない。だけど私にとっては、間違いなく大きな一歩だったって言える。
もし留学生活の間ずっとホームシックにかかったままだったら、ホープくんの言う”祝賀会”をやってもらっても、泣いちゃってたかもしれない。どうだったなんて聞かれたら、絶対に。だけど、今ならきっと——笑って胸を張って、ただいまって言えるかな。行ってよかった、すごく勉強になったって、自信持って言えるかな——?
「笑って、胸を張って……か」
みんなへの感謝の気持ちは、ことあるごとに伝えるようにしてる。それに、お父さんにも、お母さんにも。言いきれてないところもあると思うけど、それなりにみんな、わかってくれてると思うんだ。
でも、それだけじゃなくて——
切なくなるくらいに、誰かに……言いたい。
……ありがとう、って——
ふとカフェオレに手を伸ばすと、いつの間にかその温かさがどこかへ消えていた。
あれ……もう? ぼうっとしてたのかな。冷めきらないうちに、飲もう。それに今日これからのこと、考えないと。もう一度、ちゃんとパンフレットを持ち直した。
「あ、朝だったら……ここ、行ってみようかな」
*
「お姉さん、春の野菜、美味しいよ!」
「鶏肉の燻製、ちょっと食べてみて! 絶対、気に入るから!」
旧市街にある、大きな朝市。歴史ある朝市みたいで、もう500年も続いてるって書いてあった。たくさんの露店が軒を連ねてて、新鮮なお肉、野菜、お花が色とりどり。見てるだけでも楽しいし、それにすごく美味しそうだったり、爽やかな匂いが鼻をかすめる。あちらこちらから、お店の人のかけ声が聞こえてくる。すごく賑やか。今日は何か特別なのか、露店と露店の間には、たくさんの人がごった返してる。歩きづらいけど、うまくその流れに入って私も歩いてる。
ここで特別何かを買いたい! ってわけじゃないけど、人がわいわいしてる雰囲気は好き。みんな楽しそうな顔でお肉や野菜を見ながら、何を買おうか、買ったら何を作ろうか考えてる。その人の、大切な人達のために。——どこの国でも、いつの時代でも、こういう日常的な風景はみんな同じなんだよね、って思うんだ。
この朝市が500年も続いているっていうのも、こうしてみんなが大切な人達を守りながら生きてきたってことなんだよね。
『未来を夢見て……積み重ねたのか——』
「……あ」
また頭の中がふわっとした。いけないいけない、またぼうっとして。
うん、でも、そういうことだよね。最初はもっとこじんまりとした朝市だったかもしれない。だけどみんなが集まるから、だんだんと規模も大きくなって、こんなに熱気が溢れるようになった。この賑やかな雰囲気は、今日一日でできたものじゃない。長い年月をかけてつくったんだろうね——
天気もよくて、気持ちいい。見上げると、薄い水色の空。たまに太陽が雲間に入ると、まだ少しひやっとするけど。過ごしやすい天気。いいな、この雰囲気。
そんなことを思いながら空を見ていたら——ふと道路沿いに背の高い柱が、目に入る。その先についていた古風な針時計は、10時を指していた。
「あ……あれ?」
9時だと思ってたのにな——いつの間にかそんなに時間が経ってたの? だけど自分の腕時計に目線を落とすと、確かに9時。あれ? ——あ。
そういえば、時差なんて、あったんだっけ。忘れてた。ちゃんと直さないと。
そう思って、時計を外した。時間を調整するくらい、歩きながらでもできるよね——なんて、甘い考えで。だけど——
どんっ!
「きゃっ!」
「あ、ご、ごめん」
肩と肩が勢いよくぶつかって。身体がねじれる。その反動で、持っていた物が手から離れる感覚。……って——
「あっ!」
ちょうどお店の切れ目。持っていた時計が、飛んで、歩道から外れていく。その歩道は、下の歩道と立体交差していて。だから——時計は空を切って——
柵を支えにして、手を伸ばす。だけど、届かない。下の歩道の方に、落ちて行く。
「危険! 乗り出すな! 何落とした?」
「時計……」
振り向いて、気付く。——あれ、今ぶつかったの……さっき駅で会った男の子。
「待ってろ、今取ってくる!」
人の波をかき分けて、すぐ横にあった下の歩道への階段を軽々と駆け下りていった。
「わ……私も行くよ!」
——って言ったはいいけど。人がたくさんいすぎて、階段まで辿り着かない。人の流れに、流される。
「す、すみません〜」
だけど流れにうまく逆らうこともできなくて、逆側の流れに合流もできなくて、元いた場所からも離れてしまった。
しばらくそうしてもがいて、やっと別の階段から下の歩道に降りたけど——そこには、時計も、さっきの男の子も、どこにも見当たらなかった。こっちは人通りも少ないし、見ればすぐわかると思うのに。
「あれ……」
その辺をぐるぐると回って、時計が見当たらないことを確認して。そして男の子が降りた階段から、もう一度上の歩道に上がってみる。
目に入るのは、相変わらずの人ごみ。だけど、どこを見渡しても、つま先立ちで探しても、さっきの男の子はいない。ここでまた人ごみに入って探そうとしたら、また流されちゃって、余計に見つからない気がする——そう思ったから、その場でしばらく待った。雑踏の中に彼の瞳が見えないか、目を凝らして。ざわめきの中に彼の声が聞こえないか、耳を澄まして。
——だけどいくら待っても、その姿をまた見ることはなかった。
時計……見つけてくれたのかな。それで渡そうとして戻ったけど、私がいなくなっちゃったから、困ってたのかな——
*
「……ないな……」
つい、はあ、とため息をつく。
——最初に駅を出て、ぶらぶらと街を歩く。気付けば古い街並の残る旧市街で、突き当たったのは朝市のある通りだった。
最初はその賑やかな雰囲気に、圧倒。俺のいた村はもちろん、途中通ってきた街でも、こんなに人が集まってるところなんて、見たことない。
そうして歩いてると、急に香ばしい匂いが漂ってきて——
そういえば朝ご飯食べてなかった、って気付く。急に腹が減って、胃がきゅっとする感覚。足が自然に匂いの方に向いた。
「いらっしゃい、お兄さん! どれにする?」
金髪を結んだ女の人が、笑顔で対応してくれる。
「じゃ、じゃあ……それ」
「はい、ありがとう!」
適当に指を差して、お金を払う。
「はい、どうぞ」
かじる。一口食べて、わかる。
「……このパン、うまい!」
「本当?」
パンがかりかりとしてて、だけど中はふっくらとしてて。ベーコンはぴりっとした味付けで、チーズはふわっとしてまろやか。トマトとレタスがしゃきしゃき。そう思ってたら、一気に食べた。満たされる気分。
「あんた、天才! 世の中、こんなにうまいのがあるんだな。俺、感動」
「ふふ、ありがとう」
「本当。いくらでも食べられそう」
「そんなに言われたら、嬉しくなっちゃうね。——じゃあ、これはおまけだよ」といってくれたのは、ドライフルーツの入った茶色いパンをスライスしたもの。
「い、いいのか?」
「いいよ、美味しいって言ってくれる人に食べてもらえるのは嬉しいことだからね」
「嬉しい。ありがと!」
手を振って、別れる。歩きながら、もらったパンをかじる。甘さがあって、これも美味しい。
そうやって、人とのやり取りを楽しみながら、歩いてると——なんだか、ほっとする。ここでも、人がちゃんと生きてるって——実感する。毎日の生活を丁寧にして、暮らしを紡いでいってるんだって。
これも、守らなきゃいけない風景の一つなんだよな。ここにいるみんなが、こうして毎日を平和に過ごすことができるように。そして、——こういう過ごし方が出来ない人達が、少しでも早く、こういう当たり前の生活ができるように——ってことなんだよな、きっと……
この朝市、いつからやってるんだろ。最近? 昔から? だけど、この古い街並と同じように、少しずつ……守られて、積み重ねるようにして作ってきたんだよな——なんて、思う。
『うん……長い年月をかけてつくったんだろうね——』
「ん?」
あれ、また何か聞こえてた。この不思議な声。最初は聞き間違いかと思ってたけど、最近はそうじゃないってちゃんとわかる。——もしかしたらこれも、神話が言うように、引き継いだ混沌の一つなのかもしれない。
だけど——悪いことばかりじゃない。ばあちゃんも言ってた。『物事の悲しい面ばかり、見ないで。いいところも、見てあげて』って。もしこれも混沌だって言われても、——全然、悪い気持ちにはならないんだ。
そんなことを考えながら歩いてたら、人と人の間に、ピンク色の髪の女の子を見つけた。
……あれ、さっきの?
って思う間にも、女の子が近づいてくる。だけど手元を見てて、前を見てない。俺の方も人に囲まれてて、思うように動けない。あ、危な、このままじゃぶつかる、と思う間にも——
「きゃっ!」
「あ、ご、ごめん」
……そして結局ぶつかって、彼女の時計が下の歩道に落ちて——俺は今それを探してる、ってところ。
だけど、いくら探しても、落ちた時計が見つからない。
上と下の歩道でそれほど離れてもいない。ぶつかった弾みで飛んだって言っても、そんなに遠くまで飛ぶ訳もない……と思うけど。
でも、歩道の石畳もくまなく探したけど、落ちてない。歩道脇の植え込みもかき分けて探してみたけど、見当たらない。そんな俺を不思議そうに見て通り過ぎる人達。
「……くそ」
誰かが拾ったって可能性もある……か? わからないけど。
どっちにしても、これだけ探しても見つからないなら、ちゃんとそう言わないとな。
……時計、拾ってやりたかったけどな——
未達成感を感じながらも腰を上げて、さっきまでいた上の歩道を見上げる。
「あれ?」
あの女の子がいない。てっきり上にいると思ってたのに。
石の階段を上って、人ごみを縫って、ぶつかったあたりに戻ってみる。だけど、いない。いくら見回しても、初めて見るその珍しい薄いピンク色は、どこにも。
もう落とした時計なんてどうでもいいから、どこか別のところに行った——ってことは、ないよな。そういう子じゃなさそうだし、大体もしそうだったらあんな風に取ろうともしないよな。だったら——
「……はぐれた?」
いや、だけど、どうやってはぐれたんだ? 下に降りてなきゃ、さっきのところにいたはずだろ?
考えながら目の前を行き交うたくさんの人達を眺めてたら、ある一つの考えに思い至った。
「もしかして……人ごみに流された?」
結構な混雑だし。俺は何とかなったけど、女の子だったら、この人の流れに逆らって動くのは難しいのかもしれない。ぶつかった時もなんとなくぼうっとしてる雰囲気だったし、そうやって流された可能性はあり得る。
そう思い当たって、人の流れにもう一度入ってみた。そのまま流されるままに流されてみて、どっかで彼女が流れ着いてるのを発見できれば——そう願いながら。だけど、そうして左右に注意して見回しながら進んでみたけど、まったく影も形もなかった。
「おーい、セ……——」
と、呼びかけようとして、はたと気付く。
セ……って、何だ? そういえば俺、名前知らないんだな。呼びかけることもできない、か。
まあ、探して見つけたところで、ちゃんと時計を返せるわけでもないからな……
「仕方ない……か?」
まったく。一人で行動してるみたいけど、あの子も一人旅? ……危なっかしいな——
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