ゴ—————ン ゴ—————ン……
遠くから鳴り響く、荘厳な鐘の音。視線の先まっすぐにある灰色の雲から、大粒の雫がいくつも飛び出して、迫ってくるところだった。
「もう……そんな時間」
ゆっくりと手を土について、重い身体を起こす。頭や背中に付いた土や落ち葉を振り払う。
山の中腹から見下ろせば、霞みがかった村の家並み。その中心に、先端の尖った大きい教会が建っている。あそこが、俺の住む場所。みんながいる場所。
「戻らないとな」
みんなが心配するかもしれない。どこほっつき歩いてたんだよ、ってまたヤーニあたりに言われるかもな。
ぐぐっと空に向かって伸びをしてから、足を踏み出す。
まだ薄暗くてみんなが寝てる時間に起きて、近くの小高い山の途中まで登って、そして明るくなってみんなが起きる頃に戻ってくる。それが、俺の日課。——今日は少し、のんびりしすぎたけど。
山には緑豊かな木があって、草花が生えて枯れてまた生えて、それに虫が飛んだり、鳥が鳴いたり、動物が横切ったり。それに季節によって山の様子も少しずつ変わっていったり——そんな姿を見ることそのものが、俺にとってはすごく嬉しいこと。その中にいるだけで、心が満たされて元気になっていく気がする。
命が生きてること。その中に俺がいること。それを、すごく純粋に実感できる。
だけど一方で——毎日、今日も何もなかったな、と心の中で呟く。
いつも、ぼんやりと思ってる。山に行けば、何かがあるんじゃないかって。何を勝手に期待してるのか、自分でもわからない。
でも、草木や鳥や動物じゃない。心躍る何かが、駆け出したくなる何かが、そこにあるんじゃないかって。そう思って、今まで何年もこの日課を繰り返してきた。実際には、その"何か"を目にしたと感じたことは、一度もないけど。
もしかしたら、この山を越えてみたらあるのかもしれない。そこにこそ、俺を待つ何かがあるのかもしれないって——
だけど俺はいつも、山の途中で足を止めて、寝転がってただ空を見上げた。一度だって、この山を越えたことはなかった。
小さい頃のことは、正直あまり覚えてない。
親は早くに死んだ……みたいだ。今はもう顔も思い出せない。気がついたら誰もいなくて、食べるものもなくて、村の中をぐるぐると歩き回って。腹を空かせて建物の壁にもたれかかって座り込んでいたら、ふいに咳き込む音と——続いて、柔らかい声が聞こえた。
「……坊や、大丈夫?」
首を持ち上げて見上げた。逆光で見えづらいけど——そういえば村の教会で見たことのある、白髪まじりの女性。だけど、お腹もすいて力が出なくて、何て言ったらいいのかもわからなくて、不安になって。
「俺……」
ちゃんと説明しなきゃって思うのに、口が動いてくれない。それでも何かを言おうとしたら、代わりに涙だけが出てきた。
だけど、何も言う必要はなかった。しばらくしてその人は、膝を折ってしゃがみこんで、俺の目をじっと見た。
「うちに、おいで。——何も、心配することはないからね」
差し伸べられた温かい手を取った時は——ああ、俺、ここにいるんだって——まるでずっと前から決まってたかのように、自然にそれを受け入れられた。
「……うん」
不安だった心が嘘みたいに、嬉しくて、温かくて、懐かしくて。心から、安心できたんだ。
その人は教会の牧師で、俺と同じように親のいない子供達を引き取って、一緒に暮らしていた。みんながそう呼ぶのと同じように、俺もその人のことを「ばあちゃん」って呼んだ。
村のみんなは——そして、教会で一緒に暮らすようになった子供達は、みんな理由のわからない"何か"に苦しんでいた。
ナタルは、ばあちゃんや他の人達と同様、苦しそうに咳き込んでいることがあった。だからって、医者に診てもらっても異常なし。原因不明ということで片付けられてしまった。だけど本人はいつも苦しそうで、外に出ることだってひどく嫌がっていた。
リーゴは、動物を見ると泣き出した。近所の犬がじゃれついて飛びかかってくることも、論外。じゃれてるだけだから大丈夫……って言っても、リーゴにとっては恐怖でしかなかった。ただ動物が苦手だってことじゃ片付けられないくらいに。
ヤーニは何と言っても、一人で行動することを極端に怖がった。普段の言動だけ見てれば、そんなこと別に怖がりそうな性格じゃないと思うけど、みんなと少し別行動の必要があるとなった途端急に不安そうになって、嫌だからな!とわめき散らした。
そして、ユールは——
まだ小さくてみんなで同じ部屋で寝てた頃、ふと何かを聞いた気がして、俺の意識は起こされた。
「……ん?」
ヤーニとリーゴのいびきにかき消えそうな、小さな物音。きぃ、と木の扉が鳴って、空気が動く気配。
もう起きる時間? でもまだ眠いな、と思いながら、重いまぶたをうっすら開ける。まだ周りは真っ暗。音のした方を見ると、開いた扉の隙間を小さな影がすっと出て行くのが見えた——長い銀髪を揺らして。
……ユール?
一緒に寝てるはずのみんなは、まだ夢の世界にいる。寝息やらいびきが止まる気配もない。ユールが出て行ったことに気付いてる奴はいない。
まだ夜中なのに、どうした? ……いや、でもな。もしかしたらただのトイレかもしれないしな……変に気を回しすぎて嫌がられるかもしれないし。その内戻ってくるのを確認してまた寝ればいいか——と思いながら、まどろみの中に留まった。
だけど、目を閉じて待っていても、戻ってくる足音は一向に聞こえてこない。その内にだんだん気になって、頭が冴えてきた。
「さすがに……トイレじゃないよな……」
むく、と起き上がる。目をこすりながら暗闇の中でなんとか靴を探り当てて、みんなを起こさないように、忍び足。扉を開けると、少しひんやりした風が頬に当たる。
どこに行ったんだ——と考える必要は、なかった。暗い廊下を出てすぐ、窓から月明かりが差し込む場所に、ユールはしゃがみ込んでいた。
「ユー……」
ほっと名前を呼びかけようとして、言い終わる前に駆け寄った。
「どうした? 大丈夫か?!」
ユールは、暗い中を一人で……泣いていた。小さいけど、しゃくり上げるように泣く声が、廊下に響いていた。
「ユール、どうしてこんな……」
隣にしゃがみ込んで、その肩に触れる。かわいそうなほど、震えて。
「わたしが——ぜんぶ壊した。わたしの、せいで……いなくなった」
泣き声の合間合間に挟んでくる、不穏な意味合いの込められた言葉。
頭の中で繰り返してみる。壊した? いなくなった? ——生まれた時からユールといるわけじゃないけど、そんな言葉、ユールと無関係。俺だってわかるのに。
「大丈夫だ、ユール。何も壊れてない。誰もいなくなってない。……怖い夢でも、見たんだ」
言っても、しゃくり上げたまま、うわ言のように呟く。
「わたしは、ここにいては……いけない、気がするの」
「そんなこと、ない」
ユールが、ここにいちゃいけない? そんなこと誰に聞いたって、きっと同じ答えを返してくれるのに。
「ごめんなさい……」
「謝ること、ないんだ」
なのに、なんでユールはそう思う? 何が悪いって思ってる? ユールは、何もしてない。ただ、この村でみんなと一緒に生きてるだけ。それだけなのに。
だけど、ふと思い出す。ヤーニも、リーゴも、ナタルも、他の村の人達と同じように——
もしかしたら、ユールもそうなんだ。
心の見えない部分に、正体のわからない何かがいる。知らないはずの何かが、はっきりとした理由もない何かが、ずっと深い心のどこかにあって、それが絶えず心を脅かしている。
はっきりと原因がわかるものなら、解決もできるのかもしれない。
……でも、そうじゃない。俺には、みんなの原因を取り除いてやることもできない。
だったら、俺にできることって何だ?
「……ユールは、ここにいていい」
息を吸い込んで、伝えた。ユールはただ首を振った。だけど、そんなことは気にしてられない。
「ユール、大丈夫だから。……俺が、いるから」
そう言ったからって、ユールがすぐに泣き止むことはなくて。俺はただ隣にいただけだった。ひんやりして、肌寒い夜。……だけどしばらくして、小さく頷いてくれた。
それで、十分だった。
幼な心に、思った。俺がみんなを守らないと、いや守るんだって。ばあちゃんは俺を引き取って、守ってくれてる。だから、俺もみんなを守るんだって。
そう考えることは、俺にとってはすごく自然なことで——今までもずっとそうしてたかのような気持ちになった。きっと間違いなんてないんだって。
音を立てないように、木の扉を静かに引く。かすかに木がきしむ音。それに続いて、少しだけしわがれた、だけど温かくて朗々とした声。
「——生命の神に、今日も感謝なさい。あなた達が今こうして生きているのは、神の御加護があるからです。カイアスとユールに、祈りを捧げなさい」
石の匂い。薄暗さに目が慣れないままに進むと、ステンドグラスから控えめに日が射して。そしてユール、ヤーニ、リーゴ、ナタル、そして村から集まった数多くの人が、ひざまずき手を組む姿が見えた。
みんなが求めるのは、理由のわからない不安や苦しみへの救い。ばあちゃんの温かい説教にそれを見い出して、毎週日曜日になると多くの人が集まってくる。そして、ばあちゃんの話をありがたがって聞いている。——本当は、俺だってちゃんと聞かなきゃいけないとは、思ってる。
だけど……最近はつい何故か山に長居して、礼拝に遅れることが多くなった。別に、わざとじゃないんだけどな……。
そう、ばあちゃんの言うことだったらお願いでも説教でも何でも聞く。大体がばあちゃん以外の人だって、色んな話を聞くのは面白くて、好きだ。
だけど——説教に出てくる神話の話は、正直、どうしても好きになれない。
『……今は亡き神ブーニベルゼは、世界の死を目前にして目覚めました。彼は死にゆく世界に代わる新しい世界を創造し、死の穢れなき無垢なる魂のみをその世界に移そうとしました——……』
ただの神話。おとぎ話。そう思えばいいのに、どうしてか聞く気になれなくて。それでも昔は、聞いてるふりだけでもできてたと思うのに、最近じゃすっかり足が遠のいた。自覚はある。悪いな、とは思ってるけど。
「おう坊主、遅かったな」
「あら、今日は寝坊? ノエルくん程の人が、珍しいわね」
出口にいる俺と、礼拝が終わって出口に向かう村の人達。すれ違いざまに、色んなことを言われる。……不用意。途中で入ってきたの、間違ったかな。いなかったって、バレバレ。
「え、いや、うん。ちょっと……」
「困ってる人がいたとか?」
「夜まで勉強しすぎたとか?」
「そんないい理由じゃないよな? こいつそんなにいい子じゃないんですから、みんな甘やかさないでください」
ヤーニが勢いよく肩を組んできた。「っと」思わずよろめいて、別の人にぶつかりそうになる。
「ったくお前、またどこほっつき歩いてたんだよ」
……やっぱり言われた。
「いや、ちょっとまあ、時間忘れてて……」
「最近、いつもじゃねえか。俺以外誰も怒らないかもしれねえけどよ、そういうのをサボりって言うんだぞ」
「別に、サボってるわけじゃない」
「はいはい、まーたノエルの言い訳が始まったよ」
「ほんとだねえ」
リーゴ、ナタルも近づいてきて、呆れたように笑ってる。——それと、ユールは?
……あ、笑ってる。俺たちみたいに大きく笑わないけど、くすくすって。目が合う。控えめでも、ちゃんと笑顔してる。俺も笑う。うん、今日は元気みたいだ。うん、よかった。
「おい、ノエル」
「えっ?」
「サボり屋が、何笑ってんだよ」
「え、別に……何でも。平和だなって……」
「お前の頭だけな!」
——そんなこんなで、みんな、この村で暮らしてる。
それぞれ形の見えない不安や苦しみもあると思うけど、それでも平和に生きてる。そして、そこに俺もいる。それが、何よりも大事。
親はいなかった。それでもばあちゃんがいて、それに歳の近い友達——ユール、ヤーニ、リーゴ、ナタルと一緒に暮らすことができて、寂しいなんて思うことはなかった。
生活は決して豊かじゃない。だけど、賑やかに、時には喧嘩しながらも、生活の不安なく暮らしていくことができた。
それに、地域の学校にも通わせてもらった。がんばって勉強しなさい、とばあちゃんも熱心に言うから、勉強も頑張った。
俺は学校の傍ら、時間が空けば教会の仕事を手伝ったり、村の掃除をしたり、困ってる人がいれば手伝ったり。もちろん、ユール、ヤーニ、リーゴ、ナタルがまた怖がって泣いたりしてないか、気にかけたりもして——って言ったら、この歳でもう泣くかよってヤーニとリーゴあたりには文句言われそうだけど。
「あのさ。ずっと気になってたけど。お前はその、大丈夫なのかよ」
そうやってヤーニが聞いてくることも、あったっけ。
「? 何が?」
「何って……その、さ」
その時のヤーニは少し、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「その、俺たちはこう……わかるだろ? 何だかわけわかんないことで不安になったり、怖がったりしてるわけだけど」
ああその話か、と頷く。
「で、お前は、大丈夫なのかよ」
俺? と聞き返せば、そうだよ! と息巻くように返ってくる。
「村のみんなはそういうのがあるけど、お前は特に、不安とか恐怖とか無縁そうだし」
「……無縁」何だよそれ、って言う前に、ヤーニは続けた。
「——でも、たまにいなくなる時があるだろ? もしかしたらそれが本当はそういうことなのかと思って」
たまにいなくなる時? そう言われて、ぐるっと頭を回して考える。それって、俺が山に行ってることを言ってるんだよな? それが、不安になったり、怖いからじゃないかって? そう聞かれると……別に……
「うーん、別に。そういうわけじゃないな」
「何だよ。そうかよ」ヤーニは、はん、と息を吐く。「つまんねえな」
「落胆?」
「別に。ただの心配損ってだけ」
「……心配してくれたのか?」
何だか、意外なものを見たような気持ちになった。ヤーニとは仲はいい方だと思うけど、性格は違うから。
「なんでなんだかな。一応聞いておいた方がいい気がしただけ。俺とお前って、ちゃんと聞かないと変な行き違いしそうだしさ」
妙に自信ありげに話す。
「何だよ、それ」そう言いながらも、つい頷いた。話せるなら、話しておいた方がいい。「でも、同感」
だって、そうじゃないと、そうじゃないと——何かに、後悔する気がするから。
……後悔? 何に?
ふいに頭に浮かんだ考えに意識を向けようとしたら、身体が、ぶる、と震える感覚。
——何だ?
だけど、その感覚はすぐに収まって。だから俺は、それ以上考えるのを放棄した。
「だろ?」ヤーニは、ただ歯を見せて笑った。
「……うん、ありがとヤーニ」
身体が震える感覚はすぐに収まったけど、少しだけ心の中でひっかかった。
もしかしたら……俺も、理由もわからず気になることがあるのかもしれないな。今までは気づかなかっただけで……
でも、もしそうだとしても。
みんなに比べたら? 全然、大したことない。あんな風に怖がること、何もないし。どうってことない。
「ノエル、いつも助かってるよ。ありがとうね」
「ばあちゃんのためなら、いつでも!」
前は頭を撫でてくれたけど、さすがに届かなくなったから、しわの多くなった手を握りながらばあちゃんが笑ってくれる。
「いつもごめんね、ノエル」
「謝ることない。ごめん、じゃないだろ?」
「……うん。ノエル、慰めてくれてありがとう」
不安そうにしてるユールの隣にいれば、ユールも少しだけ表情を緩めて言ってくれた。
「ノエルさん、この前はうちの子を家に連れ帰ってくれて本当にありがとうね。泣いてて大変だったと思うけど」
「にいちゃん、このまえはありがとー!」
「元気になったな! 今度は迷子になるなよ?」
何かをすれば、村の人が、わざわざ教会に来てくれて伝えてくれる。
ありがとう。どれも短い言葉なのに、すごく嬉しい。言われると、自然に笑顔になる。みんな大変だけど、その分だけ俺はもっと頑張ろうって思う。
世話になるだけじゃなくて、俺もみんなを守ってるんだって勝手な自負。こうやって感謝して、感謝されて。
——こうして、日々を過ごしていく。ゆっくりと、だけどしっかりと。
一人で山を越えたことはないし、誰かと一緒に電車で他の街に行ったこともなかった。
それでも、いろんなことを"知りたい"という気持ち。それを満たす手段は、他にもあった。
テレビをつければ、ニュースで色んな国の情報が見れる。インターネットだって。どんな国でどんなことをしてるのか、政治から文化までたくさんの情報があって。自分の村との違いも楽しかった。
それに——
「何だよ、お前また満点?」
「歴史だけなら、当然。間違えようがない。他のは間違ってるのもあるけど」
「すごいね、ノエル」
「確かにすごいけどさぁユール……ちょっとムカつくっていうか、怖いっていうか」
「まあまあ。ノエルはさあ、どうやって勉強してるの?」
「えっと……何だろ。本読んだり」
「こいつの教科書、見たことない? マジでボロボロ」
「へ〜」
「ノエルは、それだけじゃないんだよ」
「それだけじゃないって?」
「難しい本も読んだり、先生に聞いたりしてるんだよね」
「う、うん。そう」
「ノエルってほんと、勉強も歴史も好きだよなあ」
「好きっていうか……何だろ。気になる」
俺にとって、本は楽しい。学校の教科書の中でも、歴史の教科書は本当にボロボロになるまで読んだ。教科書だけじゃわからないことも多いから、ばあちゃんに聞いたり、先生に聞いてみたり。図書館に行って調べたりしてから先生にまた話を聞くこともあって、そうすると驚いた顔をされることもあったな。
「そこについては……先生も勉強しないといけないな。不勉強で申し訳ない」
今度はこっちが驚く番だった。
「先生でも、知らないこともあるのか? 先生も、勉強するのか?」
「そりゃそうさ。先生は、一生勉強なんだよ。生徒にちゃんと教えられるように、いろんなことを知らないといけない。特にノエルくんのような生徒は、自分でいろんなことに興味を持って知識を得ていくから、先生ももっと頑張らないといけないね」
「……えっ?」
自分でも想定してなかった反応。ん? と、咳をしながら先生が椅子から俺を見上げる。
——何だ? そういうこと、前にも言われた気がする。いつだったか思い出せないけど。
先生は一生勉強なんだって。生徒にちゃんと教えられるようにしないといけないって。今じゃない。最近でもない。いつ? すごくきらきらして、柔らかくて、暖かい。
俺は生徒になって、勉強したいって、その時に——
「ちょっと、何か……」
そのイメージ、感覚、色、形。掴みたい。少しでも。
「どうかした?」
だけど、すごくぼんやりして、曖昧で。先生の言葉ひとつで、かき消えそうな。
もう少し何かすればはっきりするかもしれないのに、そのやり方がわからない。空気に手を伸ばしてる気分。掴めない。
「……いや、何でもない」
首を振る。そう、と言って、先生がまた話を続ける。どこか嬉しそうに。
「ノエルくんは、本当に成績が優秀だから。このまま勉強していったら、いい大学に入れるよ」
「——大学?」考えたことなかったことを言われたから、考え込む。だけど、それも一瞬だけ。「うーん。先生はそう言うかもしれないけど。そんなもんじゃないと思う、俺——」
そう言いかけたところで、ふっと心の中に違う感覚が生まれてきて。何か、言葉が。
『……ノエルなら、大丈夫だよ——』
「……先生?」
「ん?」
きょとんとして、俺の言葉の続きを待ってる?
あれ、またぼうっとしたのか。今の、先生が言ったのか? そうじゃないのか?
わからなくて、もう一度「何でもない」って言う羽目になった。
「ノエルくんなら大丈夫だと思うよ、本当に」
やっぱり、先生はさっきは何も言ってなかったのか? いやもしかしたら、優しいから2回も言ってくれたのかもしれない。何か俺、変だな。——どっちにしても、ぼうっとしてるなんて相手に失礼だし、ちゃんと話をしないと。そう、大学。別に、俺は——
「——別に、大学に入りたいから勉強してるわけじゃない。知りたいから勉強してるだけ」
「欲がないなあ。だけど、大学に行けばもっと勉強できるんだよ」
「村出なきゃいけないんだろ? みんな置いていけないし」
うん、みんな大変だし、俺がいなくなったらよくないよな。ユールだってあのままにできないし。ヤーニたちも心配だし。
「大体、ばあちゃんに世話になってる身だし、そんなところ行ける金もない。勉強したいって言っても、今の世の中場所は関係ない。本やネットがあればどこにいたって何でも知れるし、俺はこの村にいればいい」
「うーん、そうかなあ。そうでもないと思うけどなあ」
「そういうこと、だよ。でも、ありがと先生。そういうこと言ってくれて」
俺の住んでいるのは山奥の村かもしれない。それでも本を開いていれば、世界への窓が、繋がりが、そこにあるような気がしたんだ。そうしていれば、知りたいと思う心が、満たされた。
そう、特に歴史。歴史なら、古代史でも現代史でも、何でも好きだ。俺たちが生きてる世界に、過去に何が起きたのか。そして今何が起きているのか。それを知ることは、俺にとっては何よりの楽しみで……
——いや、正確に言うなら、"知りたい"という好奇心が半分。あとの半分は、"知らなければいけない"義務感のような感覚だったのかもしれない。
だけど……——
「臨時ニュースです。——…国における民族対立による紛争で、民間人を含め2,000人を超える死傷者が出ました」
背中に聞こえる、緊張を帯びたアナウンサーの声。たわいもない話をしてたはずなのに、部屋の空気が一気にぴりっとして、みんなの笑顔が消える。
でも、それだけじゃない。……何だ、これ。この感じ。
「すげえな……ひどいな。世の中、怖いな」
現地レポーターの声が聞こえ始めると、隣にいるヤーニも、いつもより低い声。食い入るようにテレビを観てるのが目に入る。
「——そう思えば、俺たちは恵まれてるんだよな。この村は、俺たちみたいに親のない子はいるかもしれないけど、そういう争いごとがあるわけじゃないもんな」
リーゴも頷いて、腕組みをして、眉を寄せていた。よく見えるようにって、テレビの前に移動して。
「そうだね……おばあちゃんのおかげだよね。今の生活に、感謝しないと……」
ナタルも、沈痛な顔。胸の前で手を組んで、何かに祈るように。
みんな、テレビの向こう側の話を真剣に見てる。俺も見ないと。でも。
何だろう、この感覚。こういう話も、"知らなければいけない"。だけど、何?
胸がぎゅっとして、肺が圧迫されて、呼吸すらままならない。
「……ノエル」
背中から、ユールが呼びかける声。静かで、今にも消え入りそうな。
「えっ? あ……うん。そうだな」
話しかけられただけで、妙に焦って。誰にともなく、何でもないんだ、と首を振って。固まる足を、ぎこちなく動かす。
「そう……だよな……授業でも、やってた。今もまだ、続いて——」
そうしてのろのろと振り向いて、ふっとテレビの画面を見て。
どくん、と心臓が鳴る。
きれいな水色の空に似合わない、銃撃の跡。崩れた茶色の壁。
そこには、たくさんの人が倒れてて。仰向けに、うつ伏せに、横向きに。変な方向に曲がってる人もいる。みんな死んでる? 生きてる人もいる? わからない。だけど、血塗れ。たくさんの赤い血が、流れてて——
腹の底から締め付けられて。身体中が、ちりちりする。痛い。
これは、知らなければいけないこと。——でも、そうじゃない。
平和なはずの世界。だけど、平和じゃない世界。
みんなが生きてる世界。なのに、"生きてない"世界。
そして、流れていく血。失われる、命。赤と黒。灰色。
この感覚、何?
知らなければいけない、じゃない。こういう風景を、俺は、前にも、見たことが。
それは、俺が、
「……嫌だ」
身体中の細胞が空気を失くしたような、息苦しさ。暗転しそうな視界。今にも天井と床が、入れ替わりそうな。
「え?」
「ごめん、俺——」
がつがつと壁にぶつかりながら、外に飛び出す。何とか身体に空気を流し込む。息、する。見上げれば相変わらずの、泣き出しそうな灰色の空。
石畳を蹴り上げて、どこか俯きがちな人と人の間をすり抜けて、喉が締め付けられて、苦しくて。
空も石畳も、灰色。その中に入り込むのは、赤、赤、赤。さっきテレビで見た映像が、繰り返し繰り返し、頭で再生される。
嫌だ、だから、もっと走る。もっと早く。もっと遠くに。
そして、こんな時に限って思い出すのは——よりによって、ずっと好きになれなかった神話の話。
『生命の悪戯を呪う人の心が、生命を願う人の心を踏み付け、そしてついには生命の神エトロをも殺させてしまったのです。そして、全ての生けるものから生と死の循環が失われ、世界は死の淵へと向かいました』
ごめん、ばあちゃん。でも、どうしても嫌なんだ、そんな話。ただの神話だってのに。
怖くなって、いつも気持ち悪くなって、苦しくて泣きたいような気持ちになる。そう、今みたいに。
『今は亡き神ブーニベルゼは、世界の死を目前にして目覚めました。彼は死にゆく世界に代わる新しい世界を創造しました。そして、死の穢れや混沌に囚われた人の心は古い世界に残し、無垢なる魂のみを新しい世界に移すことで、新たなる秩序を構築しようとしました』
それは、俺たちが生まれるずっと前の話。古代史よりもさらに昔の、この世界の誕生。まさにおとぎ話って言ってもいいくらいの。
『しかし人は、神による魂の選別を拒み、心の混沌と共に生きることを選択しました。神ブーニベルゼが新しい世界を創造した後、神を殺し、自らの足で生きることを望みました』
そこにあるのは、泥臭い闘争の歴史。人は、女神エトロを殺して、神ブーニベルゼを殺して。
『一方で生命を呪った混沌の子は、新しい世界への転生を拒み、大いなる混沌を抱えたまま、不可視の闇に身を投げました。それは、生命を望む者に自らが殺めさせた、女神の代わりとなることでもありました』
——気分が、悪い。
『長きにわたる戦いの果てに人が手にしたものは、人としての独立や、尊厳。そして彼らの記憶に残っていた全ての魂の復活。
しかしその代償もあったのです。戦いの中で蓄積された死の穢れや心の混沌を新しい世界に持ち越したために、今の私たちの心には苦しみや悲しみ、憎しみといった負の感情もまた、残りました。そのためにこの世界には、私たちの心から生まれた争いがあるのです……——』
一気に山の中を駆け上った。ざっざっと草を分ける音、土を踏む音と、自分の息の音が耳に響く。
「はっ、は、……はっ、くそ、」
さすがに走れなくなって、ペースを落として歩く。
少しだけ休もうって思って、大きな木が目につく。
幹に手を付いて休もうって、近づこうとして——
ずるっ、と足の力が入らない感覚。
身体中が、ぞくっとする。
「え……」
踏みしめたはずの何かが、崩れる。足が滑る。
え、どうして。ちゃんと足元見てたのに。
滑る? 落ちる? 転げ落ちる?
い、嫌だ、こんなところで死ぬ? なんて、そんなの、
「うっ、うわああああぁぁぁ」
意識が途切れることは——なかった。
さっきまでと一緒で、早くて苦しそうな呼吸の音。俺は、立ったままの姿勢。少し体勢は崩れてるけど。ぎゅっとつぶってた目をそっと開ければ、少し前には目標としてた大きな木。幹はひび割れてるけど、上を見上げれば青々とした葉が茂ってる。
「……生きてる」
身体を動かしてみる。思い切り走ってきたせいで少し疲れてるけど、別に痛いところもない。
と、いうか……ただちょっと足を滑らせただけ。50cmくらいは落ちたけど、それだけ。大したことない。俺、大げさ。何なんだよ、こんなところで死ぬのか、なんて。
だけど……すごく、怖かった——
青臭い草の中に身を投げ出して、空を仰ぐ。息を整えるために目一杯呼吸して——
灰色すら眩しくて。腕を目に寄せようとして、また気付く。顔がベタつくくらい、涙に濡れていた。今の出来事で、少し乾きかけてたけど。
「何だよ……俺」
何が悲しいんだ? なんで泣いてるんだ? なんでこんなに動揺してる?
赤いもの。落ちていく。黒くて。
だけどもう一度それに意識を向ければ、また涙が出てくるようだった。
一度大きく息を吸い込んで、はあっと大きく吐き出す。転がったままさらに目線を上げれば、視界の下半分に湿った空、上半分に逆さに伸びた木の葉。いつもの山が歪んだように見えて、何だか奇妙で。ずっとずっと、毎日のように見てきたはずなのに。
緑生い茂る、小高い山。俺は前から、そう——随分昔から、この向こうに行ってみたいと願ってた気がする。
向こうには何があるんだろう、って心に描いた。実行しなかったとしても、もし実行したら? もしかしたら見たことのないものを見つけられるのかもしれない、って。それは、楽しくて、嬉しいイメージのはずだった。
『——山を越えてはいけないよ』
そんなこと、誰か言ったっけ。
『越えても、危ないだけ』
地図で言えば、この先にあるのは草原、さらに先にあるのはここよりも少し大きな街。草花の生い茂る緑色、黄色、桃色、そこには、一日中寝転んでたいくらい気持ちのいい日差しがあるかもしれない。街には、もっとたくさんの人がいて、店もたくさんあって、人々の活気ある生活があるかもしれない。そこでは人は、どんな風に生きてるんだろう、って。想像することは、楽しいことだった。
そうやって俺が持っていたはずのイメージが、すっかり塗り替えられていく。——色鮮やかな風景が、流れていく血の赤、終わらない闇の黒へ。
いや。この辺の地域は、あんなテレビに映るようなことは起きていない。そういう火種になるようなことも特にない、はずだ。今のところは。……だから、大丈夫……?
本当に? 仮にこの辺が平和だったとして、リーゴやナタルが言うように、ここが平和であることを実感していればいいのか? 今の生活があることをただ感謝すればいいのか? ……そういう問題なのか?
考えたらもう一度目が熱くなって、涙がこぼれて。耳の方へと、滑り落ちていった。
——世界に何が起きたのか。そして、世界に何が起きているのか。
この村でだって、苦しんでる人はたくさんいる。だけど今この瞬間にも、どこかで、もっとたくさんの人が争ってる。もっとたくさんの人が死んでいる。知ってた。本でも、人の話でも。でも。
……全部、人ごとに思えないんだ。遠い国だとしても、関係ないなんてどうしても思いきれない。
だって、それは——
けど、だけど。
——俺に何ができる? できることなんて……何もないんだ。どうすることも、できない。
「だって、俺は——」
俺はばあちゃんに助けられた。だからこの村で、できるだけみんなを助けようとしてきた。ばあちゃんも、ユールも、ヤーニも、リーゴも、ナタルも、他のたくさんの村の人も。
それで、精一杯なんだ。周りのみんなを見てるだけで。それ以上に、何ができる?
目を閉じれば、心に浮かぶ気がする。さっき見たような、たくさんの赤。俺がいくら頑張っても、助けられない。死んでいくだけ。いくら手を差し伸べても、きれいな笑顔で、目の前で、崩れ落ちる……
「俺には……何の力もない——」
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[Side:Serah はばたく想い] 前編 へ※別窓
たかせさんとのコラボ小説@LRFF13 ED後ノエセラです。コンセプトは「ノエセラ再会がLRFF13本編でちゃんと行われなかったので、それを転生後にやろう」です。
ノエル側は、死にゆく世界にいた人々とノエルが、現実世界に転生してて、というお話です(あの駅EDがめっちゃ現代だったので)。どこかの村に固まって転生して生活しています。
「死にゆく世界の人々?もうパラドクスだし消えたんじゃないの?」というご指摘もあろうかと思いますが…まあ、ノエルが覚えていたからまた会えた、ということにしようかと思いまして(^o^; その辺はまあ自由に考えました。
それよりも、これ。これは一応ノエセラ好きさんのためのED後大妄想話のはずですけど、書いてみたら、ED後感なくて自分自身驚きました。当初はこんなはずでは…(^^; LRFF13本編前ホープが暗かったから心機一転明るく書こう!と思ってたはずですけど。ノエルももう少し明るい予定だったのに…でも、たかせさんからのコメントを反映したらこうなったんですっ(人のせいw いえ、冗談です。すべてはわたくし管理人のせいです…)
それでも、少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。
ノエル編とセラ編の雰囲気の違いなんかも含めて、たかせさんのセラ編についてもぜひお楽しみいただければと思います。
なお、途中、先生とのやり取りについては別の
ノエセラモグSS「木漏れ日」をベースにしております。
お読み頂きまして、ありがとうございました!
この日のブログ