前回のお話
[空のように、ひとつに] (3)
みんな朝が早いのか、俺が食堂に入った時には何組かの人達が食べていた。
「おはよう」ホテルの主人が、笑顔で挨拶するから、俺も応える。紙に書いてある俺の部屋番号の隣がチェックされる。
「うちは安宿だし、朝食もあんまり種類ないけどね。その分焼きたてを出してるつもり」
「いや、あるだけでもすごく嬉しい」
「ほら、それに旅行してるんだったら、いろんな店に行って食べてみればいいよ」
「ああ、そうする」
そんな話をしながらパンを取ってテーブルにつく頃には、みんな出て行く頃だった。ほんと早いな。
食堂の横にある波打ったガラス窓からは、柔らかい光。昨日はうっすら晴れてたけど、今日はどうかな。晴れるといいけど。
食べてたら、セラが食堂に入ってきた。俺を見つけると、微笑んで手を振る。
「おはよう、ノエル」
「ん、おはよ、セラ」
「ここ座っていい?」
「うん、もちろん」
セラはありがとうというと、パンを取って、テーブルに戻ってくる。
「——ノエルは、朝早いんだね」
「昨日、早く寝たからかな。部屋に戻ってシャワー浴びてストレッチしてる途中で、急に眠くなってさ。最近ずっと寝台列車で寝てたし、ベッドで寝るの久しぶりだったから、ってのもあるかな」
昨日の夜は——結局、やっぱり外に出るのはやめよう、ということになってホテル内の食堂で食べた。ここで食べるって言ってなかったのに急にごめん、というと、ホテルの主人夫婦はいいのいいの、と笑って対応してくれた。感謝。
食事の時は、ただ他愛ない話を、取り留めなくしてた。明日はストライキが解消されるのかとか、解消されてなかったらどこに行くかとか、ガイドブックをまた眺めたりしながら。
セラもあれこれ言わなかった。少しずつ、気持ちが落ち着いてきた。
『えっと……明日の出発は7時半でいい? それまでに朝食食べて』
『了解」
『じゃあ、ノエル』部屋の前で立ち止まって、微笑んで。『おやすみ——また、明日』
『……うん、おやすみ。……また明日な、セラ』
また明日。——そんな優しい響きと共に、ぱたん、とドアを閉める音が2つ。部屋に入ると急にしん、とした。
「そうなんだ。予定変更もあったり、走ったり色々あって、ノエルもちょっと疲れてたのかもね」
——それはそうかもなって、自分でも思ってた。
ストなんて予定外のことも起きた。朝から走ったりどたばたした。セラのことで気を揉んで、心配して。
そういうつもりなかったのに、必要以上に怒って、なんでか泣いて……セラに、慰められて……——
「…………」
思い出したら急に気恥ずかしい。何かしゃべらないと。いや、本当はそのことも何か言わなきゃ、ってわかってるけど……
「——そういえば昨日セラが言ってた通り、今日もストライキは続行だってさ」
「あ、やっぱりそうなの?」
「そうそう」さっきその話を教えてくれたホテルの主人が、ちょうど食堂に銀のポットを二つ持ってきたところだった。
「まったく、旅行者には大変だよなあ。コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「あ、じゃあ——私は、コーヒーにします」「じゃあ、俺も」
細い注ぎ口から白いカップに、焦げ茶色の液体が注ぎ込まれる。
「うーん、じゃあどうする? ノエル」
「まあ、止まってるんじゃ仕方ないからな。今日もどこかまわるか」
「特に急いでないんなら、それがいいよ。今日も天気良さそうだし」
「あ、よかった。じゃあ、ノエル——どうせ今日もこの街にいるなら、このホテルに延泊でもいいよね? すごく過ごしやすいし、それに荷物置いていけるし」
「ああ、そうだな」
「ありがとう! 過ごしやすいって言ってくれると、こっちも嬉しいよ」
「というわけで、このホテルにぜひ延泊したいんですけど……大丈夫でしょうか?」
セラはホテルの主人の方に向き直って、見上げた。
「空きはあったと思うし、大丈夫大丈夫! ゆっくりしてって!」
「あ、えっと……」
——と、そこまで話を進めたにも関わらず、セラは急に言い淀んだ。
「どうしたの?」「どうした? セラ」
セラはどこか申し訳なさそうな、だけど笑顔で、主人を見上げた。
「その……できれば! 延泊するので、宿泊料金を割引してもらえませんか?」
「えっ」
驚きの声を上げたのは、ホテルの主人……じゃなくて、俺だけ。
「そうだなあ〜、どれくらい?」
「……30」
「こっちも商売だからね〜。10かな?」
「じゃあ……20で! 2部屋空くより、いいですよね……? それにこのホテルほんとに過ごしやすくて、私も気に入ってるので……」
「全く、かなわないなあ〜。じゃあ、それでいいよ!」
値切られたにも関わらず、ホテルの主人はなんだか楽しそうな顔で厨房の方に歩いていった。
「へえ。そういうのうまいな、セラ」
「ふふ、こういうのは意外としっかりしてるってお姉ちゃんに言われたことあるよ」
パンをちぎりながら、セラは笑顔で答えた。
「ホテルって、交渉でも安くなるんだな。ネットで割引サイトあるのは知ってるけど」
「時期とか繁忙状況にもよるかもしれないけどね。あと相手とか……私も、いつもそうするわけでもないけど。私もノエルも、安い方が嬉しいでしょう?」
お金ないから……って言ってたの、覚えてたのか?
はっきりとは言わないけど、そんな気がしてくる。
「うん、ありがたい。……ありがと。
それに、勉強になった。——俺、こういう旅行って、実は初めてなんだ」
「そうなの?」
「受験の時とか、学校の行事とか、そういうのでは出たけど。それ以外はちゃんとした旅行ってなくてさ」
「そうなんだ。旅慣れてそうだなって思ってたのに」
「この街に来るまでに、慣れてきたってとこかな。やっぱり一人だと、色々気を配って行動するから、慣れやすいかな」
「うん、きっとそうだね」
「……でもさ、昨日思ってたけど」
「ん?」
「ここに来るまでは、一人でさ。慣れないこともたくさんあって、学ぶこともあって、楽しかったけど。
——やっぱり誰かと旅行するのっていいな。あっち行こうとかこっち行こうとか、ああだこうだって、二人でいろいろ言えるしさ」
「うん……そうだね」
そう。昨日寝る前、思ってた。
色々あったし、疲れてたかもしれないけど、絶対に忘れることないくらい、いい一日だったって。セラと一緒に大学見学したり、ためになる話もたくさん聞いたり……
『だから、ノエルも大丈夫。そんなに気負わなくても、絶対大丈夫だからね』
新しい生活への不安を零した俺に、そういうことも言ってくれた。すごく心強くて、優しくて、温かくて——何となく心の中にあった焦りが、和らぐ気がした。
確かに今まで俺は、どちらかといえば「俺がやらなきゃ」「どうにかしなきゃ」「間違えられない」って——ばあちゃんにも、ユールにも、ヤーニにもリーゴにもナタルにも——肩肘張ってたのかもしれない。みんなが送り出してくれるまでは、そういうことばっかり言って自分の心の恐れを隠して。だけど旅立った後は、今度は、ちゃんと勉強もしてバイトもして、みんなが送り出してよかったって思われないといけないって、ちょっと凝り固まってたかもしれない。
それを、もう少しだけ柔らかいもので包まれたような、そんな感覚で——
「——でもさ、会ったことない人とこうして気兼ねなく旅できるのって、不思議」
ずっと思ってたことを、口にする。本当にそうだ。村の人達とだって、同じようにできるか?
むしろ、すごく”馴染む”ような。まるで前にも、旅してたことがあるような。
「それとも……セラだからかな?」
何かしゃべらなきゃと思って口が動くがままに話し続けて……ようやく俺はそこで後悔することになる。
「そうかもね。私も、ノエルだからかな?」その言葉までは、いいけど。「——だって、あんなに色々怒られてるのに、嫌じゃないんだから」
その言葉に、俺が逆に焦る。いや、それは事実。取り消せないこと。自分でもちゃんと謝ろうと思ってたこと。でも、セラに先を越されると気まずい。
「その、セラ。昨日は……色々と、ごめん」
「大丈夫だってば。言ったでしょ? 嫌じゃないって」
「うん、言ってたけど。それでも」
「素直に言えば……最初は、ちょっと落ち込んだけど」
「……セラ、ほんとに——」
「ううん。ノエルの言葉、効いたよ。
守りたくても守れなくなるっていうのも——昨日の言葉は、全部。
でもね。ノエルは本当に心配して、気にかけて言ってくれてる……って思えるから。だから大丈夫」
少し伏せ気味にしていた目を、まっすぐに向けて、柔らかい笑顔。
「そ、そうか? そう言ってもらえると、気が楽」
でも、怒りすぎたことだけでもない。その後に、なんだかわけわからない理由で、泣いたことも。
いや俺だって村のみんなを励ましてたし、ユールが泣いた時は隣にいたことはあったけど。励ましたり慰めたりを、人にするのと、されるのって、気分的に全然違う。単に俺が、慰められ慣れてないだけかもしれないけどさ——
『俺は、ひとりだけで、残されて——』
——聞けなかった。そう言って、ノエルが涙を流した理由を。
だけど、あれこれ聞く必要なんて……なかった。
何があったのかなんてわからない。それでも、その心の痛みが、流れ込んでくる気がして——私も、……悲しくなって。
……そしてその時、頭のどこかで、しばらく会ってない大好きなお姉ちゃんのことを、思い出したんだ。
『セラは本当にお姉ちゃんにべったりね』
お母さんは私に、昔からそう言っていた。実際私はお姉ちゃんにべったりだったし、否定なんてする気もない。
だけど。お姉ちゃんだって、同じだったって覚えてる。
『かわいい甘えん坊さん』お姉ちゃんは、そんな風に言われてた。
今でこそ、見た目はしっかりした女の人になってるかもしれないけど、中身はそうでもない。特に昔は、私がお姉ちゃんにべったりなのと同じくらい、お姉ちゃんだって私にべったりだった、って思ってる。
ある時、家でお姉ちゃんと一緒に遊んでた時、私の友達が遊びに誘いに来たことがあった。
『セラちゃん、遊びに行かない?』
『えっと……』
こういう時どうしたらいいのかなって思って、ちょっと待っててねって言って一度部屋に戻ってみた。
『セラ、どうしたの?』
『えっとね、友達が、遊びに行かないかって——』
そう言ったら、楽しそうにしてたお姉ちゃんが、急に表情を曇らせて、追いすがるように見上げたのを覚えてる。
『セラ……置いていかないで』
えっ? ってつい声が出た。
『私を、ひとりにしないで——』
お姉ちゃんがどうして急にそんなこと言ったのか、わからなかった。だけどそんな風に言われたら、どうしたらいいなんて悩む余地もなくなった。
『ごめんねみんな、今日はお父さんもお母さんもいなくて、お姉ちゃんとお留守番なの。また誘ってね』
すぐにお姉ちゃんのところに戻って、手をつないで。
『ここにいるよ。一緒にいるよ』
そう言ったら、お姉ちゃんは安心して、笑ってくれたんだっけ、って。そんな昔の出来事を、急に思い出した。
——だから——
『ごめんね……ノエル。私、ここにいるよ……一緒にいるよ……』
少しでも安心してもらえるように、両手をぎゅっと握って。ノエルが落ち着くまで、ずっとそうしてた。
「でも、やっぱりちょっと……恥ずかしい」
はあ、とノエルはため息。今気にしてるのは……怒ったことじゃないよね、きっと。泣いたこと……だよね。
「ノエル、大丈夫だってば」
「う、うん。ありがと、セラ……」
ノエルは、まるで顔を隠すようにしてコーヒーカップを口元に持っていって——それから、ふいにしかめっ面。
「……どうしたの? ほんとに大丈夫?」
「いや、その……」
しかめっ面のまま、首を振りながら。
「正直、あまりコーヒー飲み慣れてなくて。……苦い」
そう言って力なく、コーヒーカップをソーサーに戻した。
「ふふ、なんだそうなの? じゃあ、なんで頼んだの?」
「セラが頼んでるからさ。ちょっと試してみようかと思って」
「でも私も、ブラックじゃ飲めないよ。いつもミルク入れてるよ。はい、これ」
テーブルに置いてあったミルクを差し出すと、そうだよな、って言いながらコーヒーに注いで、また一口。
「うん、これなら飲める。おいしい」
「よかった。あと多分、ここのコーヒー、少し濃いめなんだと思うよ」
「なんだ、そっか」
笑ってくれるから、私も安心する。……嬉しい。
『でもさ、今まで会ったことない人とこうして気兼ねなく旅できるのって、不思議。それとも……セラだからかな?』
そう言ってくれたけど——それは、私も同じだよ。
旅行してても、ノエルって全然気を使わないし。一緒にいて……すごく、自然。しっくり来るんだよね。
それに、ずっと思ってた。時計を探してくれてるあたりから。どうしてここまで、気にかけてくれるんだろう、って。
しっかりしろって怒られて、落ち込んだりもしたけど、それでも——すごく、胸が温かい気持ちになっていって……
本当に気にかけてくれてるって、その気持ちが、伝わってくるから。
『そうかもね。私も、ノエルだからかな?』
だから、そう言ったんだ。
確かに私は、ノエルがどんなところで生まれたのか、どういう人達と一緒にいたのか知らない。
だけど、それを知らなくても、根本的なところでは”わかってる”……そんな気持ちになる。
本当にわかってるかって言われたら……自信はないけど。
……そういえば、ノエルが聞いてくれるから昨日はつい自分のことばかり話しちゃった。だけど、できれば今日はどこかで、ノエルの話も聞きたい……かな。
「ね、ノエル。今日はどうしようか?」
「ああ、そうだな。決めないとな」
「試しにお姉ちゃんにもメールして、オススメあるかなって聞いてみたんだけどね……」
「へえ。どうだった?」
「すまない。知らない……って」
「はは。セラの姉さん、随分きっぱりした人なんだな」
「思い直してくれたのか、周りのみんなにも聞いてくれたみたいなんだけど——やっぱりわからなかった、ガイドブックが一番信頼できるだろう、って」
「面白いな、セラの周りって」
お父さんお母さんにも聞いたのか、それともスノウとかホープくんとか、ヴァニラに聞いたのか——わからないけど、きっとみんなバラバラなこと言ったのかもしれない。結局どれがいいんだ!ってお姉ちゃんが言ってる姿が想像できるような。
「……俺さ、立派な建物とか、そういう観光名所もいいけど。どっちかって普通の生活が見えるところがいい。昨日の大学もよかったし、あと朝市も好きだ。途中で中断したけど」
「う……本当にごめんね。あ、じゃあ……昨日の朝市、もう一回寄ってみる? 今日もやってるみたいだし。私も中断しちゃったから、もったいないって思ってたんだ。それで旧市街を出て、川沿いを歩いてみるとか、どう? 遊歩道になってて気持ち良さそうだし」
「いいな、賛成。ありがと」
*
外に出ると、薄い青空。少しだけひんやりする風が吹くけど、日向に出れば暖かい。
ホテルから出たところの通りは、昨日薄暗い中で見た少し寂しそうな雰囲気とは違って、人も歩いてて明るかった。
そこで俺は、気になってたことをつい口にした。
「セラ。今日は……スカート、長いんだな」
って俺、昨日から……そればっかり言ってる気がする。——いや、目に付くんだから、仕方ない。
でも、本当にそう。昨日は見えそうなほど(何が?)短かったのに、今日は膝下まで隠れる長さのロングドレス……って言えばいいのか。チューブトップの部分は白くて、裾に行くにつれて濃いめのピンクへのグラデーション。
セラは、頬を膨らませて、俺を見上げた。
「そうなの。だって、ノエルが短い短いって言うから!」
「え、お、俺のせい?!」
「うん、ノエルのせい!」
「い、いやそんなに短い短い言ってない! 多分、広場で、1回しか——」
って……本当に? 自分自身を、疑う。
「あ、いや、言ってないけど思ってたことは……確かに何回も——」急激にしぼむ、自信。「って、まさか……顔に出てた? とか……」
「出てた出てた。もうバッチリ」
そ、それってどんな顔? まさかすごい目つきで……なんてことは……ない、よ、な……
「あ、いや、その……なんだ……俺……ごめん……」
セラは堪えきれないようにくすくすと笑い出す。
「ふふ、ごめんね。言ってみたかっただけなの」
「な、なんだ……脅かすなよ」
少し安堵。でもあながち間違いとも言い切れないから、困る。
「自分でも、短すぎたかなって思ってたんだ。だから今日は、長いのにしてみたの。ほら」
セラはくるりと回ってみせた。裾がひらっと柔らかく舞って、柔らかそうな生地だなって思う。けど、うん。膝下までちゃんと隠れる。
「うん、長い。てっきり短いやつしか持ってないのかと思ってた」
「ふふ、そうじゃないよ」
「あ、あとそういう形のカーディガン、初めて見る」
セラが羽織ってる、見たことない珍しい形の服を指差す。って、俺が見たことないだけかもしれないけど。柔らかいニットで、ベージュ色で、形は丸っぽい。
「これ? コクーンカーディガンだよ」
「コクーン?」
「うん。繭みたいな形してるから」
「へえ。まるっこくて、いいな。コクーンって響きも、何かいいな」
「そうだよね。私もそう思ってたんだ」
セラは、そう言って笑って。
「これで、ノエルも安心?」
どこかのお姫様みたいにスカートの裾を持ち上げて、笑顔で見上げた。
「そうだな、安心……」って、一旦は口にした、けど……——
「……あれ?」
「ん?」
「ノエル。今……目逸らしたよね?」
……意外に、鋭いな。
「これも、似合わなかったのかな……」
「ち、違う! すごく似合ってると……思ってる。そ、その、気にしすぎ」
「……そうかなあ」
ああ。頼むから、そういうことにしといてくれ。
でもさ——セラ、わかってるのか、それとも本気でわかってないのか、知らないけど——
スカートは、確かに長くなった。足は、隠れた。
でも、その代わり——胸元って、そんなに隠れてないよな——な、んて……
「………」
「……ノエル?」
「ん? いや、別に。何も。全然。平気。とりあえず、そろそろ歩くか」
まさか、そんなこと言うわけにもいかないし。
「あ、うん。それもそうだね」
いや、駄目だ。昨日から——朝から、何なんだ。まるで、俺がそんなことばっかり考えてるみたいだ……俺、そういう人だっけな……
とりあえず今日は目線を下げないで、セラの顔を見て話そう。うん、そういう方針。
「——そういえばセラって、携帯電話、持ってるんだな」
話題も気分も切り替えよう。それが正解。
実際、そっちも気になってた。さっき一度部屋に戻って準備して、ロビーに下りると、セラは携帯電話を触っていた。朝も会話でも姉さんにメールしたって言ってたし、持ってても不思議じゃないけど。
「うん、お姉ちゃんとよく連絡取ってるよ。さっきの話で、力になれなくてすまないって返信が来てたところ」
セラは嬉しそうに話した。姉さんと、本当に仲良いんだな。
「あと時計代わりにもなるしね。本当は時計は時計であったほうが、ぱっと見れるしいいんだけど」
ああ、そうか。時計拾ってやれなかったしな……
「ふぅん、そっか」
「ノエルは持ってないの?」
「今まで、必要性がなかった。家に帰ればみんないたし、学校に行けば友達にも先生にも会えるし。それに、買ったら毎月お金かかるし」
「それは、そうだね。安いのも、あるけど」
「大学に入るなら携帯電話はあった方がって周りからも言われてたけど、実際どうなんだろうな、って思ってさ。
どうしても必要だって言うなら、考える。だけど電話より、直接話した方がいいんじゃないか? その方が伝わるし」
「うーん……そうなんだけどね。でも、会うために連絡取らなきゃいけないこともあるでしょう? 行く場所が家と学校って決まってればいいけど、大学に入ったら、友達もできるし、行動範囲も今よりずっと広がるから、やっぱりあった方がいいと思うよ」
「ふうん……やっぱりそうかな」
「納得してない?」
「……いや。会うために連絡を取る。行動範囲も広がる。それは納得も理解もした。ただどうしても、今までの延長線上で考えちゃってさ。自分の今後の生活がどうなってるのか、まだ実感ないってのが本音かな」
今までは——ほんとに、家に帰ればばあちゃんもユールもヤーニもリーゴもナタルもいたし……何と言っても小さな村だからな。みんなにしても他の村人にしても、家から出てすぐ会うことができた。
でも、今後実際自分がどんな生活を送ることになるのかは、想像しきれてない。友達が増える、行動範囲も広がる——か。そうなのかもしれないけど、まだ体験してないからピンと来ない。
「そっか。パソコンは?」
「今までは共有で使ってたけど、大学推奨のを買うことになった。だから急ぎじゃなければ連絡手段はあるし」
「うーん、そっか」
「だからまあ様子見、かな。どうしても必要性に迫られたら買えばいいかってところ」
ノエルとそんな会話をしていると、朝市の通りが見えてきた。あ、昨日よりは——
「ね、ノエル。今日は、昨日よりは少しすいてる……かな?」
確かに今日だって、屋台と屋台の間に、朝からたくさんの人が詰めかけてるけど……昨日よりはちょっとだけ、余裕があるような気がする。
「ん? そうか?」
「ちゃんとガイドブック見たら、一昨日は朝市がお休みだったみたい。だから昨日は特別混んでたのかもね」
「へえ、そっか。……まあ俺には、同じことだけど」
そう言って、ノエルは振り向いて、手を差し出した。
「ほら、行くぞ」
「うん!」
「じゃなくて」
「えっ?」
「手!」
「手、って?」
「セラ、すぐはぐれるから。俺、電話持ってないし。またはぐれたら大変だろ?」
え、あ、そ、そういうことね。——手を差し出されてたのに、全然気付いてなかった。そのまま歩き出すところだった。
「うん。じゃ、じゃあ……」
昨日の夜だって、手を握った。だけど——あの時とは、何か、違う、かも。
私より温かい、少しゴツゴツした大きな手。そっと、右手を重ねてみると、ぎゅっと、左手で握り返される。
「うん。これでよし」
「そうだね、これではぐれないね」……って、言ってはみるけど……
ノエルは一緒にいて自然だし、しっくりするって思ったけど、本当は気のせいだったのかな……なんて……。
落ち着かない。何だか、どきどきする……かも。
う、ううん、変に気にするから、そうなるんだよね。ノエルははぐれないようにって、よかれと思ってやってるだけだもんね。
大丈夫かな? 私、顔赤くないかな……
——ぎこちない。この言葉に尽きる。
手をつないだはいいけど、セラのいる方にうまく首が向かないし、無言。セラも何も言わないし、俺もある意味助かったけど……
ずっとそうしてるわけにもいかないからな。何か話さないと——
そう思ったところで、少し遠くに昨日見た屋台を見つけた。あ、あれ……
「あ、あのさセラ」
うん、と返事。首を90度セラの方に向けるのはまだ照れがあるから、まずは45度。まあ横ばかり向いて俺の方が前方不注意になるわけにはいかないし、これが適度。そういうことにしといてくれ。って誰に釈明してんだ俺。
「昨日歩いてたらさ、すぐそこにすごくおいしいパン屋があった。って朝もパン食べたけどさ」
「ほんと? どこどこ? おいしいものはいくらでも食べれるよ」
「そ、そう? じゃあ行くか? いろんな具が入ってたし、多分いいと思う」
「うん、行こう」
人の波をうまくすり抜けて、通りの端に寄っていく。昨日と同じ屋台、金髪の女の人。うん、間違いない。
「いらっしゃい……って、あっ、昨日来てくれたお兄さん!」
「お、覚えてるのか?」
「あんなにおいしそうに食べてくれたんだもの、覚えてるよ。それにしても、今日は随分かわいい子を連れてるのねえ!」
「あ、えっと、その、うん」
急に顔がほてる。こ、こういう時なんて答えればいいんだ? そんなこと言われることまで考えてなかった。
まごついてたら、金髪の姉さんはセラと話し始めた。助かったのか何なのか。
「いらっしゃい、お姉さん。昨日お兄さんはほんっとにおいしそうにここのパン食べてってくれてね」
「はい、さっき聞きました。すごくおいしいパン屋があるって。だから私たち、来たんです」
「また嬉しいこと言ってくれるねえ! いいよ、またおまけするから、食べてって! オススメはこの辺のサンドイッチ! お兄さんも、昨日とはメニュー違うから見てって!」
……俺も確かに昨日おまけしてもらったけど。セラもそういうの、うまいのか? ホテルの時もそうだったしな。すごい才能。
どれにしようかな、ってセラが悩んでるのを横目で見ながら、俺はまた適当に指差して選ぶ。もう、ちゃんと選んでるの? って言われたけど、きっとどれ食べてもおいしいと思うし、としか答えられない。
そんなこんなで、屋台のすぐそばで、買ったばかりのサンドイッチを食べる。
「——あ、本当においしい!」
「だろ?」
だろ、なんて言ったけど、内心すごく安堵。おいしいって言うとは思ってたけど、言ってくれるまではわからないもんだからな。
「うん、これだったらいくらでも食べられそう」
そう言って、屈託のない笑顔を見せてくれる。
そんな様子を見てると——心の中で、何かがじわじわとする。
……なんか——嬉しいな。
おいしいって言って、セラが笑ってくれる。楽しそうにしてくれる。
そういう笑顔、すごく見たかったんだって……心の底から、思う。
昨日も、言ったっけ。
『目を閉じると、思い浮かぶ。……きっとたくさんの人が、セラの周りにいてさ。みんなセラのこと、大切に思ってて。守りたいって思ってるんだろうなって思ってさ。
そういう人達に囲まれて、セラが、幸せに生きてきたって想像する。そうすると、それだけで——俺、すごく嬉しくなる。幸せな気持ち、もらえる』
同じ気持ち。
あの時は、想像の中だけのことだったけど、今こうして現実にセラが笑ってるのを見てると——
急に、この世界が色づいていく感覚に、襲われる。
争いばかりの世界だって、思ってた。ばあちゃんに、そう零したことだってある。
『みんなが生きてる世界なのに。生きてることってかけがえのないことのはずなのに。——だけどまるで俺たちが、争うために生きてるみたいで。俺自身、誰かの争いの上に存在することが嫌で。命あることが、生きてるってことが、すごく……悲しくなって……』
だけど今、少しだけ変わったように思う。
……どう変わった? うまく、言い表せない……
「……ノエル?」
「ん?」
「静か、だね」
「ん、いや、おいしくていいなって」
「……そっか。ふふ、そうだよね。私、もう食べ終わっちゃった」
「早いな。俺ももうすぐ」
「おまけのパンは、後に取っとこっかな。お腹が空いた時のために」
「ああ、そうだな。俺もそうする」
そう言って、セラはパンの袋をバッグに入れようとして——そして、呟いた。「……入らない」
「……そのバッグ、そんなに色々入ってたか?」確かに小ぶりで、あまり色々入らなさそうだと思ってたけど。
「だって……財布とかガイドブックとか……ポーチとか……水とか……」
それじゃ入らないって、最初からわかりそうなもんじゃないのか——なんて、言っても仕方ないんだろうな……きっと。
「まったく……セラらしいな。じゃ、俺のと一緒に、俺のリュックに入れといて。あとガイドブックも水も、重くてでかいやつ」
「い、いいの?」
「いいよ。俺の、たくさん入るし。セラも少しでも荷物軽い方がいいだろ? 必要になったら、また出せばいいし」
ほら、といって背中を見せてかがむ。
「うん、そうだね……じゃあ、そうするね」
背中のリュックが開けられて、ほんの少しだけ重くなる。でも別に、大したことない。
……本当は背中を見せるって、何となく昔から苦手だったけど。隙を見せて、襲われることになりそうな感覚があって。でもまあ、別にいいかって今は思えた。
「ありがとう、ノエル。身軽になったよ」
「うん、よかった」
最初からこうしとけばよかったな。そうすればセラの疲れも少なくてすむだろうし。まあ、早めに気付けてよかったってとこか。
おいしかった、と口々にお礼を言うと、パン屋の女の人もすごく嬉しそうな顔をした。うん、よかった。
「じゃあ、ノエル。行こっか」
——今度は、セラから差し出される右手。
「ん」
そうして、また手をつなぐ。さっきより自然、か。
……俺も、ようやく照れが収まってきた、かもな。
朝市にはいろんな店があるけど、野菜やチーズみたいなものだとさすがに旅行者には手が出なくて、俺もセラもどうしても通り過ぎるだけになる。
その分、さっきのパン屋さんみたいにそのまま食べられるものが売っていると、セラも嬉しそうにした。
「あ、クレープ食べてみたい」
「ん? どれ?」
「あそこ!」
指差すところに近づくと、気の良さそうなおじさんが笑顔で話しかけてきた。
「いらっしゃい! クレープおいしいよ! 採れたての新鮮な果物を使ってるからね!」
「どれがオススメですか?」
「メインの果物をまず選んでもらうんだけど、桃はうちの名物だから一番出てるよ。あとは苺とラズベリーの組み合わせも人気だね。後はみんな一緒で、バナナをミックスしたり、ホイップクリーム乗せたり」
「う……ノエル、迷うよ。桃と……苺とラズベリー……どっちも気になる……」
「早く決めろよ?」
「……さっきからノエルは適当にしか選んでないんだから」
むくれた顔で見上げるけど。……難しいな。つい思ったことを言ったら、怒られた。
「じゃあ……桃にします……」
「じゃ、俺は苺とラズベリーで」
「なんか、ずるい」
こういうところは、年上には見えないんだよな。
——それでも、食べ始めたらすっかり機嫌が治るんだ、セラは。
「さっきからおいしいものばかり食べてる気がするね。食の旅になってる」
ね?って見上げると、そうだな、とノエルはちょっと不思議な感じで微笑んだ。……あれ? 変だったかな? 大丈夫だよね。
「私の知ってるクレープよりちょっと薄めかな? でもおいしい。生地もほくほくしてて。それに大きいしお得」
「俺は、初めて食べる。こういうのもあるんだな」
「ノエルの育ったところにはなかった?」
「なんせ小さい村だしな。あ、でも——これみたいに果物を挟むんじゃなくて、卵とかチーズとかハムとか乗せて、食事として食べるのはあったかな」
「ガレット……みたいなの?」
「あ、多分それ」
そっか。そういうのはあるんだ。ノエルの育ったところって、どんなところなんだろう? 本当に素朴な小さな村なのかな。
「でも、世の中……いろんな食べ物があって——それに、いろんな国があって、いろんなお店があって、いろんな人がいるもんだな」
「うん、……そうだね」
「——でも、やっぱり、朝も言ったけど」
「?」
「一人旅より、セラと一緒の方が楽しい。この朝市も、ひとりの時よりセラがいる方がいいな」
「も、もう」
臆面もなく、急にそんなことを言うから、私の方が恥ずかしくなる。
——でも、そう思うのは……ノエルだけじゃない。
「う、うん。……私も、ノエルと一緒の方が楽しいよ」
「本当?」
「うん。昨日一人で来た時は、お店の人とも話せてなくて。ただ、見てるだけだったんだ。もったいなかったな、って思うけど。
今日はノエルと一緒だし、いろんなお店の人とも話せて、すごく楽しいよ」
「……なら、よかった」
あれ? ——少し、顔赤い、かな?
気のせいかもしれない……けど。
少し会話が途切れて、クレープを食べながら通りを行き交う人達の姿を眺めて、そしてまたノエルは背中を見せた。
「……セラ、ガイドブック取って」
「いいよ。どうしたの?」
「今どの辺なのか、地図でも確認したくて」
「あ、じゃあちょっと、クレープ持ってて」
「うん」
ガイドブックを取り出して渡して、代わりにクレープを受け取る。ノエルは、クレープを持ちながら器用に本を開いて、もう慣れたように地図をなぞりながら確認した。
「朝市もあと少しかな。セラも見る?」
「うん、ありがとう」
見てみると、確かにあと少しで通りが終わって、昨日の広場に出そうなところだった。
あれ、昨日時計を落とした場所、いつの間に通り過ぎてたんだろう。話しながら歩いてたら、全然気付かなかった。
「俺ここの雰囲気好きだから。地図でもちゃんと確認して、覚えておきたくてさ」
「うん……そうだよね。私もすごく好き。……あ、そうそう知ってた? この朝市、500年も続いてるんだって」
「500年? ……へえ」
ノエルは驚いた顔で、すごいなって言って、また周りの雑踏を見渡すように眺めた。
「あのさ、セラ。昨日来たときも思ったんだけどさ——」
「うん?」
ここじゃない、どこか遠くを見るようにして、だけど嬉しそうな笑顔で。
「ここには、毎日の生活を大切に守ろうとしてる人達がいる。丁寧に暮らしを紡いでいってる人達がいる。みんなが生きてる世界が、少なくともここにはあるんだって——そういう場が500年も絶えずに続いてきたってことが、ひとつの……奇跡なんだって、俺……思うんだ」
「——みんなが生きてる世界……そうだね」
みんなが生きてる世界……かあ。
ノエルの言葉は、きっと一つ一つ自分で丁寧に考えたんだろうなって思う。どこかの言葉を持ってきたんじゃなくて、自分でいろんなことを、感じて、考えて。
そうじゃなきゃ——こんなにも、真に迫らないって思う。こんなにも、私の心に入ってこないって思う。その一つ一つが大切で、心の中に灯りをともしてくれるような——そんな感覚があるんだよ。
「昨日セラが言ってたことも、もう少し前に聞いてたらわからなかったかもしれない。でも今なら、すごくよくわかる気がする」
……昨日、っていうと……「どのこと?」
「そこにいた人と対話してる気持ちになる、って感覚」
あ……大学の校舎を見てた時に言ったこと。
この建物はどういう気持ちで建ててたのかとか、どういう気持ちで研究や勉強をしてたのかって想像するんだ——って。何気なく、そういうこと言った。
「俺も歴史好きだって言ったけど——最初はさ、ただ、知りたいって気持ちだけだったんだ。……きっかけなんてわからない。でも、この世界に何が起こったのか、今何が起きてるのか、どうしても理解したいって……思って」
まっすぐ前を見ながら、真面目な顔。その姿を見ていたら、どうしてかまたお姉ちゃんを思い出したんだ。
『――世界を見たいんだ』
外の世界に出ることを決意した時の、短い一言。それだけで——お姉ちゃんべったりだったはずの私は、うん、と頷くことになった。
「でも今になって思えば、前の俺は——ただ、事実を知るだけだった」
「事実を知るだけ?」
「いつ頃何が起きたとか、その影響でどうなったとか。それはそれで知らなきゃいけないことだし、勉強になるけど……
でも、最近変わってきた。最初のきっかけは、ニュースで……」
ノエルの言葉が途切れるから、どうしようか迷って、話をつなげる。「……ニュース?」
「あ……うん。民族紛争で……武力衝突が起きて、たくさん死傷者が出たって話」
……あ。
「それ……ちょっと前にやってたもの? 今も続いてるんだとは思うけど——」
「セラも、見てた?」
「うん、——みんなと一緒に、見てたよ。すごく、悲しくて、怖くて——」
全然、忘れてない。お姉ちゃんのお帰りなさい会の時に聞いた、あのニュース。
『民族対立による紛争で、民間人を含め2,000人を超える死傷者が出ました——』
楽しく話してたのに、一瞬で静かになって。
そして、あの、感覚。
「……俺さ。そこに人が暮らしてたはずの家に、銃撃の跡があったり。壁が崩れたり——それに、たくさんの人が倒れてる姿を……見て」
足を踏み出す。
「あの時から、考えるようになった。自分が生まれ育った場所を一歩出たところに住む人達が、どう生きてるか」
引きずり込まれる。
「歴史の中にいた人達は、どういう人がいた? どういう考えで、どういう暮らしをしてた?」
抗えない、大きな力。
「今、そこにいる人達は、どんな思いを持っているんだろう——って」
色を無くしていく、景色。
「そこに人の命が続いてきたって、思う。だから余計に俺は……今までに世界を壊そうとしたやつらも、今世界を壊そうとしてるやつらも、許せなくて——」
壊れていく、世界。
「うん……そうだね」
私は——約束、守れなかった……
「——セラ」
急に、肩を掴まれて。「あっ」あとちょっとのところで、クレープを落としそうになる。
「もう、落としそうになっちゃったよ」
「ごめん、嫌だっただろ? 急にそういう話して」
妙に心配そうな顔してる。
「ん? ううん、大丈夫だよ。思ってること、話してくれて嬉しい」
昨日は私が話しすぎたんだし、今日はノエルのこと聞こうって元々思ってた。
「でも。すごく、苦しそうな顔してる。俺が余計なこと言ったから——」
普通に聞いてたはず。でも、そうだったのかな。
そういえば、あの時もそうなっちゃったんだっけ。それで、みんなに心配かけてた。同じこと、繰り返しちゃったのかな。
「本当は……私も、怖いよ」
正直に言うなら——そう。
留学して、旅行もして、もう大丈夫なのかなって思ってたのに。なのに、あの感覚は消えない。こういうふとした時に、また顔を出す。
「あのニュースは、私にとっても大きなものだったよ。すごく悲しくて、苦しくなって、怖くて……
だけど……もしかしたら、私を変えてくれる一つのきっかけになったのかな……って」
自分の中に巣食う、気持ち悪いくらいの不安を、はっきりと見つけて。
それをお姉ちゃんに、ちゃんと話して——
そうやって見つめ直したからこそ、不安でも、足を踏み出す勇気をお姉ちゃんからもらった。
お姉ちゃんは、逆に私の方から勇気をもらったなんて言ってたけど。
『セラはセラが信じる道を進めばいいと私は思うよ』
お姉ちゃんがそう言ってくれたから、私は——
「そうだな……俺にとってもそうかな」
ずっと難しい顔をしてたノエルが、ふいに表情を緩めた。
「——そこに生きてきた人の姿を考えるようになったのは、悪いことだけじゃなかった。
今までは確かに、戦争の起きてる国のことばかり考えて、心苦しかった。でもこうして旅してみて、わかった。平和なところも、ちゃんとある。今も昔も、そこにいた人達が大切に積み上げてきた生活があるんだって、少しずつだけど……実感する」
「うん……そうだね」
「この古い街並も——あの大学も、この朝市だって、同じ。今日一日でできたわけじゃない。きっとずっと昔から、明日を見つめて毎日を丁寧に紡いできたから、今こうして残ってるんだって、思う。……未来を夢見て、積み重ねたんだ——って」
あれ?「……うん、私も、同じこと思ってた」そういうフレーズ……聞いてた気がする。何だっけ。
「長い年月をかけてつくったんだろうね。最初は小さくても、たくさんの人達が力を合わせて。……だから」留学が決まった時から、ずっと思ってたこと。「未来を創るのは、簡単じゃないけど。何かを続けることで、実現するやり方もあるんだよね——」
ふいに、会話が途切れる。ノエルは腕を組んで、うーんとうなって。
「……何かまた、おかしいこと言った?」
「いや、全然……なんだろ、その」所在なさそうに、頭を掻いた。「……言いたいこと、先に言われた気分」
「ふふ、ごめんね」
「大丈夫」
ノエルははにかむように、静かに微笑んだ。
「——そういう感覚話せる人がいて、嬉しい、かな。
あんまり俺、自分の考え話すの得意じゃなくてさ……こういう話もさ、ばあさんや友達にもどう言えばいいかわからなくて、あまり話したことなかった」
「そうなんだ。でも、得意じゃないなんてことないよ。ノエルは自分の考えしっかり持ってるし、ちゃんと言えてるよ。慣れてないからそう思うかもしれないけど、絶対大丈夫だよ」
「……そうかな」
「うん」
「ありがと。昨日も励ましてくれた」
「昨日?」
「気負わなくても、絶対大丈夫だって」
……それは、そう。
だって、ノエルはバイトひとつ取ったって、ものすごく真面目に考えすぎて。自分がちゃんとできるのかどうか、不安に思ってた。
昨日の夜のことを、思い出す。泣いてた……ノエル。心配になりすぎるくらい心配しちゃうのも、それだけ、その先の道を暗いものが塞がないようにと、思ってるから——
……それだけ? わからない、けど……
「でも、本当にそう思ったから。……昨日今日の二日間だけ接してたって、わかるよ。本当に、ノエルなら大丈夫」
ノエルは少しして、頷いて、笑った。
「うん。……ありがと、セラ。——なんかさ、こんなに励まされるのって、不思議」
「……不思議? いい意味?」
「いい意味。安心……する。セラ、いい先生になれるよ」
……あ。
どうしよう。すごく、嬉しい。
ノエルだって、絶対そういうの、お世辞で言わなさそうだし。本当にそう言ってくれてるって、思える。
だから、その言葉に、私の方が、励まされるよ——
「……ところでさ」
「ん? どうしたの?」
ふいにノエルが、声を潜めた。
「話……すごく変わるんだけど」
「う、うん!」
「鳥、来てる」
「えっ?」
指差されて振り返ると、ノエルのいる方とは反対側の手で持ったままになってたクレープの元に、小鳥が数羽飛んできて、くちばしでその皮をつまんでいた。
「えっ、あ、ノエル! 言ってよ!」
「いや……気付いてるのかと」
「気付いてないよー!」
だけど小鳥の方は相当人慣れしてるみたいで、私が振り返ったところで飛び立とうともしない。
「だって、話し込んじゃってたんだもんね……気付かないよね……」鳥に話しかけてみる。鳥が反応してくれる……なんてことはもちろんなくて、パタパタと羽を羽ばたかせたまま、ちょんちょんとクレープをつつき続ける。……一生懸命食べてる姿は、かわいらしいなって思うけど。
「うん、みんなもお腹空いてたんだよね。小さくても、頑張って生きてるんだもんね。クレープおいしいよね。元気出るよね。いいよ、たくさん食べていいよ」
「確かに鳥も生きてる。でもさ、セラ……そんな未練がましい顔で言うなよ」
「そ、そう? 本当にそう思ってるよ」
「……やせ我慢?」
「……ちょっとだけ」
正直に言うと、ノエルは柔らかく笑った。
「じゃ、正直なセラにはこれ」
自分が持ってたクレープを、私の前に差し出した。
「い、いいの?」
「元々、半分はそういうつもり。苺とラズベリーも、食べたがってただろ? 途中で交換してもいいかなって」
「う、嬉しい……! ノエル、優しい……」
あ、でも。左手はガイドブック、右手は鳥に食べさせてるクレープ。完全に塞がってる。
えっと、って、一度ガイドブック渡して、とか。
ってまごついてたら、ノエルが一言。
「……もう、そのまま食べれば? がぶっと」
「あ、うん。……じゃあ、遠慮なくいただきます!」
——争いばかりの世界だって、思ってた。ばあちゃんに、そう零したことだってある。
『みんなが生きてる世界なのに。生きてることってかけがえのないことのはずなのに。——だけどまるで俺たちが、争うために生きてるみたいで。俺自身、誰かの争いの上に存在することが嫌で。命あることが、生きてるってことが、すごく……悲しくなって……』
でも、セラと話してるとさ——
なんでかわからないけど。
この世界が、色づいていく。そんな感覚に、包まれる。
セラがいる。……いや、セラだけじゃない、セラの家族も、友達も。こうして、名前の知らないたくさんの人達がいる。それに、鳥も飛んでて。
——みんなが生きてて、たくさんの人が命を賭けて守ってきた世界なんだって、思うんだ。
少し前までは、悲しかったはずの世界。だけど、何よりも、大切にしたくなる。
——実際。セラは、たくさん励ましてくれたけど。
そんな世界で、俺は……
俺は——一体、何ができるんだろうな……
(5)に続く
・2日目午前は特に設定もなく、何書こうかなーという感じだったのですが、
全体的には、より信頼感&親密感&ちょっと近づいた感+ちょっとの緊張感を出せるよう腐心しました。出てたらいいのですが……
たかせさんのご意見「町の市場とか、港とか、そういうの散策もいいかな~とか思いました。ヨーロッパとかって市場とか盛んなイメージがあって。見たことない食べ物とかで盛り上がったり」「きっと二人ともなんとなく安心感とか、居心地の良さとか感じてるんでしょうね…無意識下でも」がそこはかとなく入ってます。ありがとうございます!
・「2日目の服どうしましょう?」と言われて、あんな会話をさせたくて(?)あのような服を提案してしまいました。す、すみませんノエルのイメージが崩れてたら…! でも、あ〜あの、ノエルが青少年的な発想ができるくらい平和な世界になったんだと思って大目に見て頂けると嬉しいです…!く、苦しいですか?
・毎話、視点の切り替わり頻度が違っててすみません。第1話はノエル→セラ→ノエル、第2話はセラ→ノエル、第3話はまあ細々とノエル→セラ。やっぱり切り替えは少ない方が安定して読めますでしょうか…。
・最後のクレープ食べてるあたりの場面はこれまたたかせさんの絵を見て起こしたシーンなのですが、
いやそんなシリアスな会話をしてそうな絵ではなかったことだけはお伝えしておきます…笑 きわめて平和な……ええ。本当に平和な。ええ、最後にノエルがそう思うくらいの素敵な絵です。
たかせさんの画廊
(大きい画像がアップロードされるのは少し先かもしれません!)
・そして挿絵!!ありがとうございます!!かわいくドキドキした絵がよい……とフォロワーさんよりご意見をいただきましたのでそのようにお願いしたのですがとっても微笑ましいですね…やっぱり……とても眩しいです。笑
(4/10追記)
今回も絵を描いて頂きありがとうございますほたぴんさん…!必死なセラさんがかわいくてとても平和です…!そういうセラや、活気ある人の様子とか、鳥も生きてるしっていうのを見て、ノエルが感動してたらいいなあと思ってます…!
お読みいただきましてありがとうございました!!