僕はこの800年で、どれだけの人の人生を無駄にしてきた?
「ホープさん、本日の定例報告です」
いつも見るすらっとした女性が席に近づいてきて、一礼をした。
「……はい」
正直に言えば、あまり聞きたい訳じゃない。それでも促すと、カサ、と紙のめくれる乾いた音が耳に刺さった。
「昨日一日で、大地の0.00016%が混沌の海に沈みました」
大地の0.00016%、か。全部合わせてどれくらいになった? 85%はもう超えているだろうか。
「また、3803人の尊い命が失われました。なお、前線のノエルさん達が敵を倒した数は376体」
一日で3803人、か。今までの犠牲者数がまた増えてしまった。戦いで命を失った人だけじゃない。混沌の海に消えてしまった人を含めたら、ものすごい数になる。あまりに大きい数で、少しずつ数字の羅列にしか聞こえなくなっていくのが恐ろしくて、段々と報告にあげなくなった。
——もちろん、頭では覚えてはいるけれど。
その会話を周りで聞いていた人達から、ささやきが漏れた。
「最近また死者が増えていたが、今日は一段と、多いな」
「対策の成果が上がっていないのか……」
「静かに」その女性は凛とした声で制した。
「混沌の拡大速度は、AF500年の発生時点と比較すれば相当に弱まっていますが、残念ながら停止や縮小までには至っておりません。また敵の数は徐々に減少してきていますが、その分強くなっているようです。こちらの犠牲者数がなかなか減らないのは、そういった原因があるようです」
「……なるほど。種族の個体数が少なくなるにつれて、残った個体が強くなる——か」
「とはいえノエルさん達前線のおかげで、敵の数が減少していることには変わりはありません。もう少しすれば、ルクセリオやユスナーンといった各拠点に警備兵を配置するだけでも敵の侵入を防げるようになりそうです」
「問題は、それがいつ頃になるかだな。こちらがどれくらい持ちこたえられるのか……」
「——そうですね」報告資料をめくりあげる音が聞こえた。「やはりユスナーンからの物資供給が滞っているのが、前線での被害拡大の一因となっているようです。戦闘や怪我人回復のための物資が限られてしまっていますから」
「それは以前すでにユスナーンには連絡済で、対応も依頼しているはずですが。まだ何もありませんか」
「物資を生産するファルシ=パンデモニウムの調子が悪い、と以前より聞いております。詳細調査するとのご返答でしたが、原因が判明したとも、対応をしたともご連絡がありません。こちらでも供給量の推移を追っておりますが、数値上回復はしておりません」
「ルクセリオでは既に配給制減もしているし、これ以上はこちらを削るのも難しい。——直接スノウに連絡します」
物資供給が滞っているというのは知っていた。知ってはいたけれど、ここまで長引くとは思っていなかった。スノウとは直接話していたし、スノウはどうにかすると約束してくれた。
今、ユスナーンはどうなっているんだろう? もっと早く、もっとちゃんと把握しておけばよかった。後悔の念を感じながらもヘッドセットを頭に付け、スノウとの通信回線に切り替える。
どんっ……
切り替えた途端に聞こえたのは、何か強いものがぶつかる音。続いて何か大きい物が、勢いよく画面を横切る。そして、重い物が落ちるような鈍い音。戸惑う人々の表情、そして叫びや、ざわめき。
……何が起こってる?
「おい、ス——」
「……お前らが、何したってんだ!」
呼びかける途中で聞こえたのは、聞き覚えのある声の、聞いたこともない怒声だった。それに呼応して、周りのざわめきがゆっくりと静まっていく。
「おい。文句言うことができるのは、何かをやったやつだけなんだ! 何もやらねえやつには、何も言う資格はねえ!
どうしても文句言いたいってなら、俺に言えよ! 俺こそ、何もできなかった人間なんだからよ。でもな、よく聞けよお前ら。ホープにもノエルにも、二度と文句言うんじゃねえ!」
床に落ちていた人影は、手で床を押しながら上半身を起こす。”俺はまだ納得していない"と言わんばかりに、彼を殴りつけた人物を見上げ、睨みつける。
「だけど、なんでだよ。元はと言えば前線にいるあいつらが原因で——」
「今さらそんなこと言って、どうなるってんだ!」
大きな人影が、床に倒された人の胸ぐらを勢いよく掴む。
「じゃあ何だってんだよ。全体の統率がなくなって、前線が崩れてもいいってのかよ。今度は俺達が敵に殺されるんだぞ。俺達は、何もできねえ人間なんだからよ」
「っ、だけど——」
「——それとも」ぐっと腕に力が込められて、首から上が後ろに倒される。「前線で戦ってる奴らの命の代わりに、てめえがシ界に放り出されてえか? ……その方が、生き残る人間も多いかもなあ」
胸ぐらを掴まれた人物は、今度こそ何も言わなくなった。
「本当はこういうことはしたくねえが——仕方ねえ。おい、こいつらを捕らえろ。連れて行け」
太守親衛隊と思われる人達が、倒された彼と周囲にいた数人に縄をかける。最初は抵抗していたが、親衛隊に連れられて、モニターの外へ消えていった。
「——……スノウ」
画面からは消えたけれどそこにいるであろう人に向けて、僕は声をかけた。あん?と気が立った声が聞こえてから数秒、ひときわ大きな人影がモニターの前にのそっと映り込む。
「ホープか。……あー、わりいなぁ。見られちまったか」
ため息をついて、昔と違って前に下ろした金髪を片手でくしゃっとする。
「何が起きてる?」
「んー、まあ、何だ。ちょっと、色々あってよ」妙に、言いよどんでいる。
「……物資の供給の件?」
「まあ……そういうこった」スノウは腕組みをした。「混沌レベルが妙に高くなってて、パンデモニウムの野郎が調子悪いって話はしただろ? それで物資の生産量が減ってよ……」
ったくここまでまたファルシの世話になるなんて思ってなかったのによ、とスノウは毒づいた。
僕たちがAF0年にファルシ=オーファンを倒してから、ほとんどのファルシは動きを止めた。その中でもファルシ=パンデモニウムは、この世界で唯一今も稼働し続けて、必要な食糧や物資を生産してくれている。作物を育てる土地も混沌の海に沈み、食糧となる動物も数が限られている中で、ファルシ=パンデモニウムがいなければ僕たち人類は生き残って来れなかったかもしれない。
だからスノウは、自分の身を削るようにルシの力を使ってまで、混沌をコントロールして、ちゃんと物資が生産され、各地に届くようにしようとした。
「でもよ。ちゃんと調べたらそれが本当の原因じゃなかった」
「本当の原因じゃない?」
「確かに物資の生産も減ってた。でもさ、お前やノエルのところに届ける分が足りなくなるってほどじゃなかったんだ、本当は」
物資の生産が減ってはいるものの、それなりの量が確保できている。でも、それが必要なところには届いていない。そして、さっきのやり取り。とすれば……
「というと……——生産された物資が、どこかで止められていた……ってこと?」
「……そういうこった」
スノウはその大きい身体をすぼませるように、またため息をついた。
「ユスナーンにも人はたくさんいる。前線ほどじゃねえにしても、ここにだって敵は出てくる。おちおち他の地域にまで物を回してらんねえんだとさ。こっちは十分に物資を供給してるはずだと。だから送ってる分だけで何とかしろと。それがあいつらの言い分さ」
みんながみんな、あいつらみたいに思ってるわけじゃねえって信じてえけどよ、と小さくスノウは付け加えた。
「……それは」
「あーあ……いつからあいつらも、自分たちのことしか考えられなくなっちまったんだろうなあ。ノエルたちが前線で戦ってるから、自分たちは何とか安全にしてられる。前線が崩れたら、ユスナーンだって危なくなるかもしれない。だったらよ、自分たちが少しくらい我慢したって、あっちに物資を送ってやろうって思えねえのかよ! あいつらが止めたから、戦えなくて、回復できなくて死んでったやつだっているのによ!」
スノウは悔しそうに、右手で左手を打ち付けた。
物資が滞ってたのは、パンデモニウムのせいだけじゃなくて、人の問題。ユスナーンの人達が止めてたから——か。
原因はわかったけど、それが本当の原因じゃない。きっと、そのさらに奥に、理由があるはずだ。それをどうにかしないと、再発を防止することもできないんじゃないか?
だけど。
——感覚的には、真因を確認したところでどうにもならないんじゃないか、という憶測だけがあった。
「スノウ。どうして彼らは、物資を止めてやろうなんて思った?」違う。もっと直接的な言葉で。あまり他の人には聞こえないように、声を抑えて。「ユスナーンの人達が、僕たちに不満を持ってる?」
んー、とまた腕組みをして、うなった。「スノウ」ともう一度呼びかけると、スノウはモニターから視線を外した。
「……そもそも世界の崩壊の原因を作った奴になんか、物資供給は必要ねえんじゃねえかってよ。それにこの混沌との戦いが終わらないのは、リーダーの指揮が悪いんじゃねえかって……クソみてえなこと言いやがるんだ。お前のこともノエルのことも、なーんも知らねえくせによ」
再びスノウは、右手で左手を打ち付けた。
「——前半は全く賛同しかねるけど……リーダーの指揮についてはあながち間違ってないかもね」
そう、わかってたこと。そういう風に考える人がいたって、おかしくないんだ。
「何言ってんだよ!」
ああくそと言いながら、スノウは打ち付けた拳を握りしめた。
「……なあ、ホープ」
両手を握りしめる姿が、まるで神に祈る姿のようにも見えた。
「俺はさ……この混沌の世界でもみんな生きてけるようにってよ。物資は平等に分配するように努力してきた。それが今の俺の使命なんだって思った」
「……そうだね」
「でもよ。自分は安全なところにいて、勝手なことばっかり言いやがって。そのくせ、何百年も生きてることで膿んでいって。自分の命も他人の命も、軽視する。早く世界が終わればいいんだって言いやがる。俺だってその気持ち……痛いくらい、わかるんだけどよ」
「……スノウ?」
「それでも平等に分配しなきゃいけねえのかな。どうしても……思うんだ。そんなやつら、早く死んじまったほうが…そいつも周りも、幸せだってさ」
「それは——」
そうだとも、そうじゃないとも、答えることができない。
……誰のことを言ってるんだ?
「まあでも、何とかするさ……してみせる。まずは、前線だ。あいつらにはちょっとばかし我慢してもらうさ。当分は拳で黙らせるかしてな。生産量も安定してねえかもしれねえが、幸か不幸か……人の数も減ってるからな。そのうち生き残った人間だけなら、必要な量より多く供給できるようになるだろ。そしたら、どうにかユスナーンの奴らのガス抜きでもしてやることにするさ。戦いばかりじゃ疲れちまうからな」
花火でもどーんと打ち上げるから、そしたらお前もノエルと一緒に見に来いよ、とスノウは手を広げながら笑った。
「混沌が広がってパンデモニウムが調子わりいってんなら、俺がルシの力でなんとかする。ここが混沌に呑まれたら、ノエルのところにも、お前のところにも食糧を送ってやれねえ。そうなりゃこの世界は終わりだからな」
「スノウ、気をつけてよ」どこか不安になって、僕は切り出した。「ルシだからって、力を使い果たしたら……」
そこまで言って、言葉が止まる。できれば、言いたくないこと。言ってしまえば、本当にそうなってしまいそうで。
「なんだよ?」
「……いや、何でもない」
僕は、首を振った。でもスノウは、至って平気そうな顔。
「シ骸になるってんだろ?」
スノウはあっさりと、続くはずだった言葉を言った。
「……わかってるなら」
「へへ、なれるもんなら、早くなりてえな。シ骸だって、ああ見えて生きてるんだからな。死んでるよりマシかもしれねえだろ?」
出会って間もない頃に見たような、ふざけたような口調。
「スノウ。今はそういう冗談は……」
「冗談じゃねえさ。俺はいつだってシ骸になってやるぜ? 最初にルシにされた時と違ってよ、今回はそういう覚悟で自分からルシになったんだ。思ったより長く生き延びてるけどよ」
「だめだからな。間違っても暴走して、ルシの力使い切ったりするなよ。そういう事態になりそうなら、まず僕に相談すること」
「お。心配してくれんのかよ?」
「当然だろ!」
軽く笑いながらそんな返しをするから、僕はつい声を荒げた。そうすると、スノウはようやく笑うのをやめた……けれど。
「でもさ。……俺にはさ、これしかできねえんだ」
スノウの表情は、達観したような穏やかさすら感じさせた。
「今まで俺には……何もできなかった。ノラのやつらだって、待っててくれたってのに。セラも……それにノエルも、自分が死ぬことを覚悟して戦ってたのによ! お前だって、全部捨てて時間を超えて、頑張ってたのによ! 俺ができたのは——確かにファングとヴァニラのクリスタルは守ったかもしれねえけどよ、一番大事な時に……コクーンが堕ちる時に、セラが死ぬ時に、ただ見てただけだ」
吐き捨てるように、言った。
「俺はもう、そういうことはできねえ。現にノエルは——あんなことがあった今も、死を覚悟して戦ってるんだ。自分で壊した世界を、ちょっとでも食い止めるようにってよ。お前だってそうだろ? 混乱した奴らをまとめあげてよ、混沌と戦ってるじゃねえか。じゃあ、俺はどうするってんだよ? シ骸になる覚悟でもなきゃさ、俺になんて生きてる価値もねえじゃねえか!」
「……スノウ」
知っていたけど。そういう覚悟でいるんだっていうことくらい。
その気持ちを止めることができないってことくらい。
だけど……僕は……
「——物資についてだけどよ」スノウはそれ以上の話を避けるように、話を戻した。「とりあえず物流を止めてたやつらは捕まえたから、元に戻ると思う。ちゃんと流れてるかどうかはまた見とくけどよ。また何かあれば、連絡する。お前も、何か気付いたことがあれば言ってくれ」
それとさ、と話を続けた。「ノエルはどうしてる?」
「今から……連絡するところ」
そっか、とスノウは腕を組んだ。
「俺のことはいいけどよ。ノエルのことも気にかけてやれよな。あいつが一番心配だ。なんせ、ずーっと戦い通しで張りつめてやがるんだからな。大丈夫って言うだろうけどよ、思いつめてヤケになっちまってねえか? 俺が言うとあいつ気にするからよ……ホープから言ってやれよな」
「……わかったよ」
ノエルへの心配。それもわかる。だけど、自分への心配を逸らそうとしているようにすら、思えて。
そうとわかっていても、スノウだってヤケになるなよという言葉は、声になることはなかった。
僕は一旦回線を切ると、ヘッドセットを外して、後ろを振り返った。確認結果を待ってる人達に、言わなければ。
「物資供給を止めていた者が、ユスナーン内部にいたそうです」
「……なんと」
「安心してください。先ほど、犯人を突き止めたようです。程なく、元通りになるはずです。念のため供給量の推移は逐一確認しておいてください。まずは前線を優先としますが、問題なければルクセリオにおける配給制減も段階的に解除していきましょう」
「承知いたしました」
ユスナーンで何が起きているのだ、というささやきが周囲から聞こえる。そう思うのも当然だ。ユスナーンは物資供給の要、今やこの世界の大動脈とも言える。ただでさえ混沌の海の拡大や敵の侵入といった不安材料が懸念されているのに、その他の要因も存在するとなれば——不安にもなるし、対策も必要だということもわかる。
「それと」はい、という返事が聞こえる。「……いや」
本当はそれが起こった原因も、言うべきだとわかってる。それは、間接的にでも全体に関わることだ。
じゃあ言うのか? 『ユスナーンの人達は、僕たちに不満があるようだ』って? だけど、そこまで言ってどうなる? 何か対策なんてできるだろうか? 闇雲に、お互いの反感を煽るだけじゃないだろうか。
それに、その不満の原因は、つまるところ僕の無能さにあるのだから。
「もしかしたら、また同じようなことが起こらないとも限らない。ユスナーンの様子は、どんな小さなことでも把握するようにしてください」
「承知いたしました」
ただそれだけを告げた。
僕はもう一度ヘッドセットを付けて、今度はノエルへの通信回線を呼び出す。
そう、ノエルには謝らなければならない。ユスナーンからの供給が滞っていたこと。そのために長期間前線に負担をかけ、被害が拡大してきたこと。そして、その問題は幸い解決の目処が立ったことも、伝える必要がある。
切り替わる画面。だけど、スノウの時と違って、何も動かない——というよりも、映像全体がすすけたような茶色に覆われている。
故障なのか? ヘッドセットを耳に押し付けて集中すると、何かくぐもった音が聞こえるような気がする。音声は生きている。
「……ノエル? 聞こえますか?」
どこか不安になる気持ちを抑えながら、僕は呼びかけた。
「ノエルさん……通信が」
誰かがかすれた声で知らせるのが、聞こえる。
「……ホープ?」
遠くから聞こえる。ノエルの声だ。
「ごめん。ちょっと待ってくれ」
「後にした方がいい?」
「いや……いい。一段落するところ。そのまま待っててくれ」
それから数十秒経っただろうか。
少しのあいだ頼むと言って、息せき切って近づいてくる気配。ガサガサという物音が近くに聞こえてきて、映像に映っていたすすけた茶色が右に左にと取り除かれていく。
「ごめん、……待たせた」
茶色が消えてモニタに映し出された色に、僕は瞬間的に息を止めた。
そういう場所にいるってことは、知っていたのに。今まではノエルが気をつけていてくれたからか、そういうところを見ていなかったから。
「……ノエル、……血が」
現れたノエルの顔いっぱいに、赤黒い血がついていた。さっきの茶色も、……同じもの?
ああと言いながら、ノエルは手にしていた布で顔をぬぐった。それはきっと、さっきカメラを拭いたのと同じもので。
「……俺のじゃない。さっきまで、敵と戦ってて。いつもより、多くて。怪我人見てたら、反応が遅れて」
ノエルは肩を上下させたまま、ぬぐいきれない赤のついた顔を下に向けた。
「ごめん……ホープ。今日もたくさん……命、救えなかった……」
3803人が、昨日より多いか少ないかじゃない。
現場では、こんなにも摩耗しながら、戦っている……。
「ノエルは、十分すぎるくらい、よくやってくれてますよ……」
何も言わずに、ノエルは首を振った。
「むしろ、こちらの対応が悪くて本当に申し訳ありません……怪我人も多くなっているというのに補給物資が足りていなくて、被害が拡大してしまい……」
「物がないんじゃ、仕方ない。その中でやるしかない」
「その件ですが、その後調査しました。ファルシ=パンデモニウムが混沌レベル上昇を受けて不調であったため、物資の生産そのものが滞っていたことが、原因でした」
「そっか」そう言って、手を顎に当てて少し考える素振りをして、続けた。「……それだけ?」
それだけじゃないと、皮膚感覚で気付いているのかもしれない。それか、前線側でも何か調べていたか。例え気付いていなかったとしても、言う必要があるのだけれど。どんなことでも、情報は共有しあう。それがノエルとスノウと交わした約束だから。
「ユスナーン内で騒ぎがあって。ルクセリオにも……そして前線にも、物資を送る必要はないと主張する者達がいたようです」
「……ふうん。そっか」
血の残ったままの顔で、淡々とした反応。怖いくらいに。
「どうして戦う必要があるのか、どうして前線なんかに物資を送る必要があるのか。わからない奴がいてもおかしくない。誰だって、気付いてる。……前線で戦ってる俺が最大の悪で、この世界の惨状の根源だってこと」
「……そんなことは」
もう肩で息はしていないけど、逆にその落ち着きが怖いと思う。
「どっちにしても。そいつらが俺を憎んでいても、物資を送ってくれなくても、関係ない。俺のやることには変わりない。戦うこと。
そいつらのせいで、死者が増えたわけじゃない。怪我人の回復ができないなら、俺がその分戦えばいい。食糧も十分行き渡らないなら、俺の分の食糧を回す。そうやって最小限の損失で、最大限の成果を出す。それができなかったのは、俺の失態。それだけ」
「そういうことじゃありません。敵も強くなってきて、怪我人も増えて、補給物資も少なかったんです。ノエル一人が原因じゃありません。それにノエルだって、食べなきゃ戦えないんですよ。わかっているでしょうが、人は不老ではありますが、不死ではありません」
「平気。最初にいた村じゃ、まともに食べ物にありつけることなんてなかった。何日も食べないなんて普通。それでも俺、生きてた」
「そういう問題じゃありません!」
あまりにも彼の抱えるものは大きすぎて、軽々しくわかるなんてことは、言えない。
だからこそ僕も、そしてスノウだって、彼の"心"には触れられないできた。
……だけど、それじゃ駄目なんだって今さらながらに後悔する。
「元々戦いに慣れてない人たちを率いて、不利な条件で戦ってるんです。それにノエルはもう300年以上、毎日休みなく混沌と戦っているんです。他の人は交代できますけど、ノエルは常に緊張と、命の危険にさらされて。ノエルが心配です。できるだけ時間を見つけて、休息を取ってください。周りにも指示しますから」
「大丈夫。休息は不要」
「ですが!」
「だけど、俺の代わりもいない。……だろ?」
「……っ」
それを言われると、痛いところだ。自分でも言ったように、他の人ならいくらでも交代できる。だけど、ノエルがいなかったらどうなる? 今だって何とか敵を食い止めている状態だっていうのに——最悪、総崩れになる可能性だってある。
「ごめんな、ホープ。だけど、これしかできないから……俺、戦う」
僕もスノウも触れられないうちに、築かれてしまった透明な壁。その中でノエルは一人でバランスを崩して、そのうちに、戦いの中かそれ以外かで、彼自身をも傷つけてしまうかもしれない。
だから今までみたいに見て見ぬ振りはできないと……思ったけど。
——もしかしたら、不用意に踏み込みすぎてしまったのかもしれない。
「戦ってないと……怖いんだ」
その頭が、うなだれる。
「戦ってないと、全部……思い出して」
「ノエ——」
「俺は、未来を託されたのに——できなかった。俺に未来を託したやつらが、俺が死なせた奴らが、みんなで俺を……」
長い前髪が、顔を隠して。
表情は見えない。
「ばあちゃんが、ヤー二が、リーゴが、ナタルが、黒と、赤が、砂が舞って、息苦しくて、みんな泣いて、ユールが、倒れて、痛くて、アリサが、消えて、カイアスが、笑って、血が飛んで、女神が、セラが、苦しんで、今までの、全部が、俺に! 今も同じ、ここで死んだやつら、みんな!」
「……ノエル」
「悪いパラドクスじゃないのか。何かを変えたら、全部未来は書き変わらないのか。女神は死ななかった。セラは死ななかった。カイアスも生きてた。ユールと会えた。ばあちゃんも、あいつらも、みんな生きてて……そんな未来に、ならないのか。
未来が変わらないって言うなら、過去を変えることができたら。ユールだって、未来が変われば過去も変わるって言った。もう戻りたいんだ。あの村に。カイアスもいなくなって、ユールも死んで、その時に戻って——……俺が死んでしまえばいい」
「ノエル!」
ノエルは、はっと口をつぐんだ。ザザ、という通信音だけが、耳にぶつかる。
——全部が全部、自分のせい。死んだ人も、生きてる人も。
何もしなければ、村を救えなかったことも、セラさんが死んだことも、この世界を壊したことも思い出す。
だからって戦えば、死者が出る。死者を見れば、自分が世界を壊したからだと思う。ユスナーンで騒ぎが起きたのも、自分のせい。
そもそも、あの時ああすれば、あの時ああすれば。そうして数多くの終わらないパラドクスに囚われて、全てに対して責任を感じて、そして、身も心も摩耗していく。
そんな風に自分を追い込み続けたらどうなる? ……どこかで擦り切れてしまうのに。
「もう、終わった話なんです。過去はもう、どうしたって変えられないんです……。ああすればよかった、こうすればよかったと後悔しても、今となっては何も変えることができないんです……」
世界が壊れたことも、セラさんが死んだことも。——それは、言葉にはならなかった。
「何も……変えられない……」
「だけどノエルは、きちんと決断してきた。できることを、きちんと行動してきた。だから……何も後悔することなんてないんです」
……僕は、誰に言ってるんだ?
「っ、だけど! もっと早くに気付いていたら……」
「それは今振り返るから、言えることです。 ノエルは未来のために、その時々で取りうる最良の選択肢を取ってきたはずです。だから、こうしてまだ人は生きてる」
「生きてるって言ったって……命が生まれないのは変わらない! こうして少しずつ人は死んでる。生き残ってるやつらだって、傷ついて、苦しんで、もう終わらせたがってる。……そんな顔をしてほしかったわけじゃないんだ。俺達が旅したのは、セラが生きて……死んだのは、人が苦しむ未来のためじゃ……ないのに」
ノエルはうなだれたままで、首を左右に振った。
……僕は、どうすればいい?
思い出させて、言いたいだけ言わせてやれば、いいのか? その後また思い出して、ぐるぐると同じことを考えて、摩耗していくだけかもしれないのに?
「ノエル……過去を全部思い出していたら、あなたの身が持ちません」
どうすればいい?
「下手したらそれが命取りになってしまうことだって、あり得ます」
どうすればいい?
「そんなことできないってわかってます。でも——だけど、お願いですから。今は……過去のことは忘れていてください」
「忘れる……?」
「……そうです」
そんなこと、無理に決まってるのに。忘れているために、また戦えとでも言うのか?
「……なあ」
ふいにノエルは、赤黒くすすけた顔を上げた。
「過去が変わらないっていうなら、未来には何がある? こうして頑張ってる先には、何がある……?」
何かにすがるように、まっすぐに僕の方を見つめる。
「俺は……何百年も、同じことを繰り返してきた。戦う、戦う、戦う。血が流れる。怪我人の世話をする。また戦う。死者を弔う。また、戦う……」
最後には、かすれた声だった。
そんな日常を送っていることを思い浮かべると、胸が、苦しくなる。淡々と話していたって、その光景は……きっと生々しく、凄惨なものだ。ルクセリオにいるのでは、それを知ることはできない。
「戦うことは、俺の仕事。でも、じゃあ——こうしていたら、どんな未来がある……? ユールの予言の書で見た未来は、もうどこにもない。セラが視た未来が何だったのか……今はもう、知ることもできない」
どんな未来があるか、か。
リーダーであれば、未来を指し示すのが仕事。 今までは、歴史を壊す者を倒し、新しいコクーンを浮かべ、人類の未来を守るんだと言えばそれで十分だった。アカデミーの人達もコクーンの人達も、それで納得してくれた。
でも今は? 僕は何を指し示せばいい?
人工コクーン計画は失敗した。何万人、何十万人の人生をかけて作った人工コクーンにも混沌が浸食して、間もなく放棄した。それだけじゃない。人類の未来を守るんだと言ったことも、何一つ実現できていない。そして、何百年も混沌と戦い続けて——戦わせ続けて、それを退けることも、止めることもできていない。
これは、ノエルに聞かれている質問。だけど同時に、他の全ての人から聞かれている質問。
だけどそんなもの、僕だって……——
「——ノエル。今は、今のことだけ考えていてください」
「……今だけ」
「そうです。過去のことも、未来のことも考えない。ただ目の前のことだけに、集中してください」
——僕は、失格だ——
「ノエル達の頑張りのおかげで、幸いにして敵の個体数も減少してきています。その分強力な敵も現れていると聞いてはいますが……あと少しの踏ん張りなんです。そうすれば——少なくとも、戦いの数は減る」
戦いの数が減ることを聞かれてるんじゃない。その先のことを知りたいに決まっているのに。敵が減った後は? 混沌の海はどうする?
ノエルは、しばらく目を伏せた。
「……わかった。過去のことも——考えない。自分が犯した罪も、過ちも——今は、忘れるようにする」
そして死者が出れば、また思い出すのに?
「未来に希望があるかどうかを考えて絶望するくらいなら、考えない」
じゃあノエルは、何を支えに戦うっていうんだ? あんな過酷な戦いを?
「……大丈夫。心は失くして、無心で敵と戦う」
そうして目を開いて僕を見るけれど。ノエルの顔には何の表情もなくて、そして、暗い陰が差していて。
僕の中の何かが、ぎり、ときしんだ気がした。
「ごめん……ノエル」
「俺の方こそごめん、ホープを困らせた」
「僕も、ノエルを助けに行けたら……」
「戦うことは、俺の仕事。スノウのおかげで、物資も補給できてる。ホープの仕事は、前線で戦うことじゃない。全体を統率すること。だから、問題ない」
そしてノエルは、ゆっくりと息をついた。
「……大丈夫。さっきはああ言ったけど、ちゃんと自分の様子見ながら、戦う」そうして頷いて、続ける。「それよりも、——スノウの方が、心配。あいつ、突っ走ってないか? 無理してないか? 突っ走ったら、生き残れない。自分が死んで何とかしようなんて、言ってないよな? あいつ……昔から向こう見ずで、自分の命、大切にしないやつなんだ」
「それは……僕も知ってる」
そっか、とノエルは小さく笑った。
「ホープだって人の心配ばっかりしてるけど、休息も仕事のうち。全体の統率も大変だけど、ちゃんと休めよ」
ノエルもスノウと一緒で人のこと言えませんよという言葉は、乾いた空気にさらわれていった。
二人とも、これしかできないって。あいつは大丈夫かって、心配して。
僕は、どうなんだ?
僕は、何かができているのか?
僕は、大丈夫なのか?
深いため息が漏れて、ヘッドセットをゆっくりと外す。思わず、手を操作パネルの上に付いた。
「ホープさん」
「……はい」
呼びかけられて、何とか背中を伸ばして、振り返る。
「物資の件につきましては無事に解決の目処が立ちました。しかし、他にもホープさんに直々にご判断を仰ぎたい問題が数件ございます」
判断、決定、決断。毎日毎日、絶えることなく。
「……わかった。ただ、申し訳ないのですが……少しだけ時間をくれませんか。気分が優れなくて」
「それは……医師をお呼びいたしましょうか?」
「いや、そこまですることじゃない。ちなみに、緊急の用件はどれくらいありますか?」
「幸い今すぐというものはございません。しかし、できるだけ早く手を打った方がよいものはいくつかあります。ですので、ご都合のよろしい時にお声がけください」
「……わかりました」
多くの人が僕を注視する中を、すみません、と言って通り抜ける。ボディーガードとしての警備兵が二人、両脇を固める。
電気は付いているはずなのに、廊下が暗い。変な重力がかかっているかのように、歪んで見える。
最初はいつも通りのペースで、徐々に、スピードを上げて歩く。そしてようやく、自室にたどり着く。
「それでは、我々はこちらで待機しております」警備兵は扉だけ開けると、廊下で立ち止まった。
重い金属の扉をがしゃんと閉めると、僕は思わず扉によりかかった。誰もいない部屋。ようやく、ひとり。
身体中が締め付けられるような感覚。息が苦しくて、立ってることも嫌で。扉にもたれたままで、少しずつずるずると下に下がって、ついには座り込む。
『だけどノエルは、きちんと決断してきた。できることを、きちんと行動してきた。だから、何も後悔することなんてないんです』
『っ、だけど! もっと早くに気付いていたら……』
『それは今振り返るから、言えることです。 ノエルは未来のために、その時々で取りうる最良の選択肢を取ってきたはずです。だから、こうしてまだ人は生きてる』
頭に響くように思い出される会話。…思い出したくもない。膝に頭をつけて、耳を塞ぐ。
「最良の選択肢なんて、よく人に言えたもんだな……!」
偉そうなこと言っといて、自分は何なんだよ? 人に言うからには、お前はその時々でちゃんと決断できてるのかよ? 最良の選択肢が取れてるのかよ?
『物資の件につきましては無事に解決の目処が立ちました。しかし、他にもホープさんに直々にご判断を仰ぎたい問題が数件ございます』
毎日毎日聞きにくるけど。何なんだよ。確かに報告も相談も大事だ。大事なことはすぐに言ってくれって、僕だって言った。でもさ。
「僕は……神じゃない! 何でも聞けばいいだなんて、思わないでくれ! 判断? 僕にだって……何もわからないんだ! 人工コクーンだって、失敗した! あれほど多くの人の労力をかけさせて作ったのに、全部無駄になったんだ!」
本当に僕が対処すべきは、コクーンの墜落でもなかったのに。カイアス・バラッドなんかじゃなかったのに。
僕は、真の原因を見極められなかった。セラさんとノエルがカイアス・バラッドを倒して、僕は人工コクーンを作って打ち上げればいいと思った、それが浅はかだった。結局はあれも、溢れ出た混沌が侵入してきて——すぐに放棄することになってしまった。
「今は何だよ? 労力どころか、命まで犠牲にして。この800年で、どれだけの人の人生を無駄にしたんだよ、僕は——なのに、この世界を飲み込もうとする混沌を打ち消すどころか、食い止めることもできない。人が死んでいくのをどうすることもできない! ノエルに最前線で戦わせて、スノウに物資供給させて、だけど僕には何もできないんだ!」
拳を石の床に叩き付ける。じん、と手がしびれる。これを比較にならない大きな痛みを、多くの人が味わった。——僕のせいで。
「なのに、なんで頼るんだよ? わかるけど! こんな大変な時じゃ、他にどうにかする人もいないってさ! 僕じゃなかったら、もっと酷かったのかもしれないけどさ!でも、僕は……無策なんだ。僕は、無力なんだ……。頼られれば頼られるほど……苦しいんだ。だから、頼るのは……もう、やめてくれ……!」
この惨状は、誤った方向に導いた僕の責任だから——今は僕じゃなければ、この事態に対応できないから——そんな気持ちでなんとか自分を立たせて、やってきたけど。
ユスナーンだけじゃない。このルクセリオ内部にだって、暴言を投げかける人もいた。引き摺り下ろそうとする人達もいた。今だって、従ってはいるけれど、不満を抱えた人達はたくさんいるんだ。
「引き摺り下ろすなら、やれよ今すぐにでも! 批判ばかりしてないでさ! 僕を殺すなら……っ!」
殺せばいいという言葉が喉まで出かかって、最後まで言葉にならなかった。胃から何かがこみ上げてきて、思わず手を口に当てる。
「…っう…っ」
だけど、別に何かが胃から逆流するわけじゃない。ただの吐き気。そう、いつものこと。——僕は、大きく息を吸い込んで、肺が縮まるくらいに吐ききった。
ひんやりした壁に手をついて、ふらふらと立ち上がる。額を押さえて、何とか部屋の中心に足を運ぶ。
誰にも、相談できない。スノウもノエルも、それぞれ大変だから——必要なことはもちろんお互いに相談しあっているけど、近くにいないがために言い切れていない部分もある。
だからってこんなこと、覚悟してたことだろう?
——でも僕は、こんなにも孤独だっただろうか? 今まではどうだった?
小さい頃、父さんが仕事でなかなか帰ってこなくて、寂しくて反発していた。その時は、母さんがいつも一緒にいてくれた。
ルシになった時、みんなが悪意の目を向けて、僕を殺そうと追ってきた。子供ですら僕を怖がって、怯えた目を向けた。だけど、一緒に戦ってくれた仲間が、そこにいた。
最初にコクーンが堕ちた後、ルシの仲間とはバラバラになってしまった。母さんはもういなかったけど、だけど……今度は父さんが見守ってくれていた。
パラドクスの研究を始めてからは、離れていても、共に戦う仲間がいた。ライトさん、ヴァニラさん、ファングさんを救うために——セラさん、ノエルと協力した。サッズさんだって、最後には駆けつけてくれた。
それに、アカデミーの人達は協力的だった。創立者の息子であるということも大きかったのかもしれない。だとしても、研究ユニットのリーダーになって、責任あるプロジェクトを任された時も、みんな協力してくれた。だから僕は——難題があったとしても、乗り越えることができた。部下は多くても、その時に、忌憚のない意見をくれる人が隣にいたから。
そう、タイムカプセルに乗った後も。
周りは、みんな知らない人だらけ。僕を、雲の上のような存在のように扱ってくる。仲間のように接するのは、もう難しい。それでも、タイムカプセルに乗る前から一緒にいてくれた人が——文句だって言うけど、部下では言えない率直な言葉をくれるパートナーがいて、だから、僕はいつも助けられていて——
……?
あれ?
……誰だ、それ。
言葉は思い浮かんだものの、頭の中にイメージが出てこない。
忌憚のない意見をくれる、パートナー? そんな人は——いない?
僕は、今までも……一人だった?
「そっか、一人か。……ははっ」
僕は、ふらふらとした揺れる身をソファに身を投げ出した。どさっと身体が跳ねる。
さすがに疲れているのかもしれない。何百年もずっとリーダーとしてやってきたから。スノウもノエルも共に戦う仲間であることには違いないけど、できれば隣で一緒に考えてくれる参謀のようなパートナーが欲しいって気持ちになってるんだろう。
「何もできない。何も解決できない。——僕は……無能だ」
じゃあ、誰かに代われば済むのか。他の誰かだったら、この状況を何とかできるのか。
それとも。
もう、何をしても無駄なんじゃないのか。
命を蝕むように、広がる混沌。人の叫びと大地を飲み込んでいく。そして、少しずつ減っていく生存者。
どれだけ減った? 今日で3803人? 今まで合わせて、どれだけの命が失われた?
……そして。
生まれる命は、ない。あの時に——女神エトロが、死んでしまったから——
『俺が、女神を殺した……?』
目を開かないセラさんの身体を抱き締めて、虚ろに自分の両手を見つめたノエルの姿を思い出す。
いなくなった女神。大いなる混沌が、この世界に溢れ出た。大地が灰色の海に沈んでいった。この世から生命の誕生と老いがなくなった。人も、そして動物も。
一日一日はいい。だけど、このペースで死者が積み重なったら? 計算すれば、すぐにわかる。命が死に絶えるのが、早いか遅いかの話だけだ。
それに、何とか敵の数を減らして、生き抜いたところでどうなる? 混沌の海は、広がりこそすれ、一度だってその範囲を縮めたことはない。生き抜いたって、その内に全ての命は混沌の海に沈んでしまう。
もしかしたら誰がやっても、一緒なんじゃないのか?
そう考えた瞬間、自分の中で何かが小さく弾けて、そして広がっていく。
「あっはは……もう、終わってる。——もう、どうしようもないじゃないか……」
こうして僕は、800年で——僕が眠っていた間も含めて、何十万人? 何百万人? 何千万人? そんな数えきれない程多くの人の労力と命を、全て無駄にしたんだ。いや、今までだけじゃない、これからだって。
「……こんなはずじゃ、なかったのに」
呟いて、片腕で目を覆う。そうして目の前が暗くなれば、さっき言われた言葉を思い出す。
『ノラのやつらだって、待っててくれたってのに。セラも……それにノエルも、自分が死ぬことを覚悟して戦ってたのによ!』
『そんな顔をしてほしかったわけじゃないんだ。俺達が旅したのは、セラが生きて……死んだのは、人が苦しむ未来のためじゃ……ないのに』
傷つきながら、苦しげに、吐き出していた。僕は、それをうまく受け止めてあげられなかったけど。
「スノウ、ノエル……僕だって」
セラさんに生きていてほしかった。ヴァニラさんファングさんを、元に戻してあげたかった。ライトさんに、戻って来てほしかった。サッズさんにも——またみんなで平和な世界で会えるならって、心から願ってた。
「僕だって、同じ気持ちなんだ……」
僕がどんな思いで、時を超えたのか。
僕がどんな思いで、新しいコクーンを作っていたのか。
僕がどんな思いで……——
『——ねえ……』
ふいに、頭の中に何かが思い浮かぶ。
『新しいコクーンも道筋が……きましたね…そうだ……名前、何にします……?』
コクーンの、名前?
いつ決めたんだっけ。そんな会話、どこかでしたんだとは思うけど。
『新しいコクーンの名前? ネオ・コクーンでいいんじゃないかな』
『……センスない……すねえ……』
そう言われても、なんて苦笑いをした気がするのに。会話が思い浮かぶくらいなら、顔だって思い出してもいいはずなのに。
『……未来のかかっ……ロジェクト…んです。……んな適当なの……なくて、……ちゃんと……名前を……ましょうよ……』
『ちゃんとした名前ねえ』
『……です……そこに……の思いを込めて、名前にしましょう……』
『思い……か』
僕の思い。新しいコクーンに込めた、願い——
『僕はさ、やっぱり……人が暮らしてるこの世界が、永遠であってほしいなと思うよ。
昔みたいにパルスとコクーンで争って、ヴァニラさんとファングさんがクリスタルで眠るなんてこともない。
ファルシの都合で誰かがルシになったり、シ骸になることもない。ファルシを恐れて、人間同士が殺し合うなんてこともない。もちろん僕たちが酷い目にあったような、パージなんてものもね』
『そうで……ね』
……僕たち?
『そして、歴史が壊れてライトさんが引き摺り込まれることもないように。スノウやセラさんが、ライトさんを探しに行くなんてこともしなくて済むように。
人が死んでいく世界なんてものが、ないように。二度と、ノエルくんのように悲しい思いをする人がいないように。
この新しいコクーンは、僕らは、永遠に続く幸せな世界を作っていくんだ』
『……世界を創る……んて、……まるで神話に……くる、ブーニベル……たいですね……』
『それ、いいね。万能の神ブーニベルゼにあやかって、そう名付けようか。ブーニベルゼのように、新しい世界を創るんだ』
僕がどんな思いで、新しいコクーンを作っていたのか。
そう。永遠に続く幸せな世界を創るため……——
自然と涙が出る。そんな夢みたいな理想だけを掲げて、僕の現実は何だ? これだから、お人好しって言われるんだ。
「ブーニ……ベルゼ……」
部屋の中の一角。棚の上の壁に、タペストリーが掛けられている。あまりにも忙しくて余裕がなかったから、ずっと顧みてはいなかったけれど。
覚束ない足を引きずって、そこまでたどり着いて、ひざまずく。タペストリーを見上げれば、天高くから光を放ち、硬質な翼を広げて地上を見渡す、至高神ブーニベルゼの姿。
「至高神ブーニベルゼ。僕はこの世の永遠を願って、新しい世界を創りたくて、……だからあの人工コクーンにも、あなたの名を冠したんです。だから——僕の戯言を、聞いてほしい」
今までだって、心の中でなら何かを言ったかもしれない。だけど今は誰もいない、だから声に出して。
「あなたは、地上の状況をどう見る? 女神エトロの消失以降、この世界には混沌が流れ出てしまった。今はまだいい、でもあと200年もしないうちにきっと、混沌の海がすべての大地と生命を飲み込んでしまう。もうどうしようもない。みんなの嘆きが、悲しみが……積み重なって——僕のような小さい人間には、もう手の打ちようがないのです」
ノエルじゃなくたって、考える。
もし、本当に過去に戻れるのなら。最初に戻れるのなら。
「全てを……やり直したい。ブーニベルゼよ、あなたは僕らに救いの手を差し伸べてはくれないのですか?」
部屋は、しんと静まり返ったままだった。
僕は、息を漏らす。
「今までだって何もなかったのに。今さら何か、あるわけが——」
「——神の救いを、求めるか?」
「……え」
静まり返っていたはずの部屋に、機械のような人の声。周りを見回してしまう。もちろん誰もいない。
スピーカーから聞こえたような気がする。だけどコンピュータは起動させていない。
さっきも思い違いをしていたし。疲れすぎて、幻聴まで聞こえるようになったのか?
「そなたが、聞けと申したのだろう」
また、機械の声。ゆっくりと、しかし厳粛な口調。やっぱり、電源を付けていないはずのスピーカから聞こえる。
僕が聞けと、言った。戯言を聞いてほしいと、僕は言った。確かに、そう。じゃあ……これは——
身体中が粟立って、思わず立ち上がる。
「——ブーニ……ベルゼ?」
特に肯定する言葉はなかった。だけど、それでも僕には十分で。心の中には——それを信じる気持ちがすでに存在していた。そうとしか考えられない。そしてその存在に、すがりたいと。
「人の子よ……そなたの願いは、この地上を元の状態に戻し、やり直すことか」
至高なる存在より投げかけられた大きな質問を、心の中で反芻する。
地上を戻す? ……そうだ。もしもそれが叶うならば。この混沌の海が消えて、敵が消えて、僕たちが元に生きていたような状態に戻るのならば、それが望ましいに決まってる。
「はい、その通りです」
返答が遅くならないように、答える。
「だが、我の力を持ってしても——この地上を、救うことはできぬ」
「なっ……どうして!」
「死の女神エトロの死によって保たれていた均衡が破れ、不可視世界の混沌が、この可視世界に溢れすぎた。均衡の破れた世界は、もはや以前の姿には戻せぬ」
「……そんな」
ぐらりと傾く身体。
じゃあ、やっぱりどうしたってこの世界は救うことができないのか?
僕がやってることも、スノウやノエル、たくさんの人達が頑張ってることも——すべて無駄になってしまうのか?
ヴァニラさんファングさんが二度もクリスタルになってまで、ライトさんが見えないところで一人で戦ってまで、セラさんが命を賭けてまで守ろうとしてくれたこの世界が、すべて。
そんなことって……——
「案ずるな。新たなる世界の創造は可能。彼の地にて、そなたたち人間の魂を救おうぞ」
機械の声は落ち着きはらったまま、厳粛に答えた。
「新しい世界の創造? そんなことが……?」
いつまで、スノウとノエルの身を削ればいいんだろう。いつまで人々を、戦いの苦しみに、生死のない苦しみに置かなければならないんだろう。いつまで僕は、こうして……
——ずっと答えることのできなかった問いの答えが、ここにあるのかもしれない。
「……ならば、神よ。ぜひ、その御力をお貸しください」
「ならば、女神エトロより生まれし、卑しき人の子よ。過酷な運命を乗り越えし、強き魂よ。我の計画に、力を貸す意志はあるか」
「計画? ……力?」
「さよう。
我は可視世界のすべてを統べし神。それゆえ、目に見える新たな大地であれば創り出すことができる。——だが、我とて万能ではない。不可視世界は扱えぬ。
それゆえ、新たなる地を創りし後、不可視世界を新たに統べる者——消え失せた女神エトロの代わりとなる者を探さねばならぬ」
「不可視世界を統べる……女神エトロの代わりを探す……?」
ずっと昔に母さんから神話の話を聞いたような気がする。アカデミーでも少しは勉強した。その時のかすかな記憶を総動員して、話を理解しようとする。
すると、どこかにひっかかりを感じた。
「ブーニベルゼよ。もし神話が正しいのであれば、リンゼもパルスもエトロも、あなたが創造したのだという。ならば、再度あなたがエトロに代わる死の神を創造することはできないのでしょうか?」
「——小賢しや」
その口調が、強くなった。
「女神エトロは、我にとっては失敗作。ゆえに我は力を与えてはおらぬ。あれは、今は亡き母なる神ムインより力を与えられし神。ムインの命を受け、可視世界と不可視世界の均衡を保っていた。我には、不可視の混沌を扱うことも、不可視世界を治める神を創ることもできぬ。ムインとエトロに代わる者を見つけ出す他に手はない」
苛立たしそうな声音だった。
「……口が過ぎました」
すると機械の声は、また落ち着いた声音で、意外なことを告げた。
「——そなたと我は似ているのであろう」
僕と……ブーニベルゼが?
「そなたも我も、世界の不滅を…永遠を願った。作り上げた世界が、永遠に続くことを願うのは、至極当然であろう」
ブーニベルゼは、この世界を創った。
僕は……? 確かに、時を超えてまで守り創ってきた未来を、ずっと残していきたいと願っている。そう、永遠に。
「彼の者を倒せば、それが手に入ると信じた。世界に滅びをもたらすものを、排除しようとした。我は母なる神ムインを、そなたは時空を乱す者を」
確か神話ではブーニベルゼは、母なる神ムインを倒そうとして、不可視世界に渡ろうとした。だからファルシ=リンゼとファルシ=パルスを作り出し——今の大地が生まれ——その内に、ファングさんとヴァニラさんが巻き込まれた黙示戦争が始まってしまった。そして僕たちの知っている、ファルシ=オーファンの話に続いていく——
「しかし、真実はそうではなかった。我は不可視世界にいるムインを倒せば、永遠が手に入ると考えた。しかし、それは我にとっても過ちであった。
ムインは可視世界と不可視世界の均衡を保つようエトロに命じ、消えた。ムインは消えたが、世界から滅びがなくなることはなかった。そしてそなたらも歴史を乱す者を倒し、エトロの心臓を貫き、エトロは消えた。——それは、より大きな滅びへの入り口であった」
AF500年のことを、言っているのだろうか。自分が切り捨てたエトロの身を持って不可視世界への入り口が開くことは、至高神ブーニベルゼを持ってしても想像し得なかったことなのだろうか。
「開かれて、我も悟った。不可視世界への入り口は、開くべきではなかったと。可視世界と不可視世界の均衡。創造と破壊。生と死の輪廻。それは、どうしても世界には必要だった。——万物の滅びる運命がムインの呪いのためと考えたのは、誤りだったのだ。
しかし、今となっては遅い。大いなる混沌の娘は、女神をも殺させ、可視世界に踊り出た。均衡は、崩れ去った。この世を覆い尽くすその力は、止めることはできぬ。この世界は、もはや救いようがない」
大いなる混沌の娘? それは……誰だ?
「可視と不可視が分け隔てられた世界を今一度構築すれば、その時には、人の子らも安全に暮らせるであろう。死の穢れなき無垢なる魂を招き、新たな世界を創ろうぞ」
「死の穢れなき、無垢なる魂……?」
——聞き流してしまいそうな、キーワード。だけどそれも、どこかにひっかかりを感じた。
死の穢れとは、何だ? 死の穢れのある魂は、どうなる? 招かれるのだろうか? もしそうでないならば、それは魂の選別を意味するものではないのか?
だけどそれを問うことは、果たして許されるのか。
「一つだけ、聞かせてください。——ブーニベルゼよ、あなたはなぜ、僕らを救うのでしょうか。人の心には、エトロが与えた小さな混沌があります。それを救うことは、あなたにとっても意味のあることなのでしょうか」
「人に小さな混沌が存在することは、我とて知っている。しかしその小さな混沌も、この世界の均衡にとっては必要なもの。
——しかし、均衡を崩すまでの混沌は要らぬ。死の穢れに囚われた娘のような混沌が、再び世界の均衡を崩すようなことがあっては、かなわぬ。そなたらも困るであろう」
知っていることと、知らないことが混ざり合っている。神の……壮大な計画。
僕はきちんと理解しているだろうか? 把握しているだろうか? 至高神ブーニベルゼの意図することを。メリットの多い話に見えて、実はデメリットだってあるのかもしれない。
でも、だから何だ? これを逃したらもうないんだ。スノウを、ノエルを、クリスタルになったままのヴァニラさんファングさんを、どこかにいるサッズさん…そしてライトさんを、この世界を救う手段は、もうどこにも。このままチャンスをふいにすれば、世界は遅かれ早かれ滅びてしまう……文字通り、ゼロになってしまうんだ。
だったら少しでも救いのある道を選ばないといけない。
「ブーニベルゼよ。あなたは、僕の力も必要であるとおっしゃいました。僕は……どうしたらいいのでしょうか」
問うと、少しの間があった。
「先ほど告げたように、我は万能の神ではない。不可視の混沌を扱うことはできぬ」
「はい」
「とはいえ、可視世界と不可視世界を分けた世界を作り上げるにも、この世界より人の魂を救うにも、混沌を避けて通ることはできぬ。よって、エトロの血より生まれし、そなたの力が必要となる」
「僕であれば、混沌を扱える……ということですか」
「さよう」
声は、厳かに頷いた。
「女神エトロより生まれし、人の子よ。——そなたは、人であることを捨て、神の駒となることを受け入れるか」
——言葉がすぐには頭に入ってこなくて。僕は、すぐ答えることができなかった。
「……人であることを捨てる?」
「我の駒となるということは、人としての記憶も感情も失われる。しかしそなたには、神の計画の一部となり世界を救うという大きな誉れがあろう」
「記憶も、感情も失われる。——全て……ですか」
「否。我とて、卑しき人の心を理解する必要がある。全て切り捨てることはせぬ。神の計画に役立つものであれば、残るものもあろう」
人の記憶も……感情も?
今までのことが、失われるかもしれない?
父さんと母さんの子供として、生まれたことは? 母さんが好きで、仕事ばっかりする父さんと仲が悪かったことは?
ルシになったことは? 母さんが死んで憎しみでいっぱいになって、スノウを殺そうとしたことは?
それでもライトさんが、仲間のみんなが助けてくれて、それを乗り越えたことは?
父さんにお前の家はここだって言われて、和解したことは? 最後にはみんなで力を合わせて、ファルシ=オーファンを倒したことは?
ファルシに支配されない世の中になって。そして、人の役に立ちたいって死ぬ程勉強したことは?
リグディさんに励まされたことは?
ライトさんがいたのは夢だってセラさんに言ったのに、セラさんの方が正しかったってわかって悔し涙を流したことは?
父さんが死ぬ前に、振り絞るような笑顔でタイムカプセルに送り出してくれたことは?
夢の中でライトさんに力強く背中を押されたことは?
セラさんとノエルの協力を得て、たくさんの人の応援をもらって、人工コクーンを打ち上げて。サッズさんが来てくれて、ヴァニラさんとファングさんのクリスタルも回収したことは?
だけど。
人工コクーンは打ち上げたのに、失敗したことは? 世界に混沌が溢れて、苦しむ人達を見たことは……?
それでも、人が協力して混沌に立ち向かう姿を見たことは? 三人で力を合わせて危機を乗り切ろうっていって、スノウとノエルと一緒に戦ってきたことは……?
少しでも救いの道があるなら、とたったさっき納得しかけた心が、また揺らぐ。それは、どうしても避けられないのだろうか? 他に手段はないのだろうか? ——僕は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「それは……僕にとっては」
失くしてはいけない、大切な記憶なんです——そう言いかけて。
ふいに声が聞こえて、……僕の身体は固まった。
「いいじゃない」
今まで聞こえてた機械の声とはまた違う。そう、そこに神の存在を感じる以外には、誰もいないはず、なのに。
「大した記憶じゃないんだから。いいじゃない、なくしたって」
すうっと冷えていく背中に投げかけられる、からかうような女性の声。
振り向けない。振り向けば、負ける気さえする。
「リーダーにとって必要なのは、生ぬるい記憶じゃない。冷徹さと非情さよね。あなたは、過去の思い出なんかには邪魔されず、目の前の難局を冷酷なまでに判断していかなきゃいけない。現にあなたは、そうしてきたわ。違う?」
「……ち」
「あなたの仲間が二人、自分の傷をえぐりながら身を削っているっていうのに。あなたのやってることは何? 仲間としての思い出は冷徹に切り捨てて、その痛みを見て見ないふりして、みんなのためにもっとえぐれって急かし続けてるだけじゃない」
「違う! 切り捨ててなんかない! 見て見ないふりなんかしてない! 僕にとっては、大切な仲間だから! 辛くても力を合わせてこの世界を守ろうって、誓い合ったから!」
だけど、背中からは、くすくすと笑う声が聞こえた。
「そう、立派なものね。だけど、切り捨ててない、忘れてないって……本当に言い張れるの?」
言葉に含まれていた嘲笑は、途中から聞こえなくなった。
「——あなたは、忘れてはいけない人の記憶を、既に忘れているのに」
その代わりに、ゆっくりと、そしてひどく冷たさの感じさせる声。
「あなたと共に歩んでいた人がいたのに。あなたに理解されないままで、自分の苦しみを我慢しながら、頑張った人がいたのに。あなたはもう、忘れているんでしょう?」
どうして。
「……ちがう」
「違う? そんなこと、言えるの?」
だけど、否定することができない。首を大きく振りたいのに、違うんだともっともっと叫びたいのに、自分の中の何かが、それを押しとどめる。寒いのに、汗が噴き出すような。
誰? 誰なのか、わからない。知ってる人? 知らない人? それすらも。
もしかしたら、誰でもないのかもしれない。何かが、僕を陥れようとしているだけかもしれない。だったら、それは何だ?
でも、知りたくない。聞きたくない。
何もわからないのが、僕が大切な記憶を既になくしているという——何よりの証拠なのか?
「ねえ、先輩。忘れちゃったんですよね? ——私のこと」
そっと、囁くような声。
「……あ」
なんでなのか、わからない。だけど、理由もないのに——膝が震えて、目から涙が溢れ出て。
「もう忘れちゃってるなら、これ以上記憶をなくしたって同じじゃない」
「……違うんだ——僕は……」
「あなたの記憶なんて、元々大層なものじゃないの。だったら今までのことはきれいさっぱり忘れて——今あなたにやれることを、やったら?」
「今、僕に、やれること……?」
精一杯声を出そうとして、出てきたのは、かすれた言葉だった。
そして、いくら待っても、声はもう聞こえなくなった。
数秒。ばっと勢いよく、後ろを振り向く。
だけどそこには、何の影も残っていなかった。
「……っ」
今のは、何だ? 気のせい? 疲れてるから? 僕の心に潜む何かが、聞こえたように錯覚しただけ?
そう思い切れないくらいに、その言葉の一つ一つが、確かに僕の心を刺していた。
「……は」
地面が揺れるような、感覚。足に、力が入らない。
身体が崩れて、手を床についた。目から溢れて行き場を失った涙が、床をぱたぱたと打ち付ける。
僕は……どうすればいい?
わかってるでしょう? と言われた気すらした。
『……俺にはさ、これしかできねえんだ』
スノウは、ルシの力を使って混沌を抑え、ユスナーンという街とノウス=パルトゥス全体を物質面から支えている。例え力を使い果たしてシ骸になったとしても、望むところだと言い切った。そういう覚悟でルシになったのだから、と。
『これしかできないから……俺、戦う』
ノエルだって、自分の崩壊させた世界と自分が苦しめた人達を、少しでも救おうと戦っている。血まみれになりながら、人が傷つく姿に傷つきながら、少しでも敵を倒して、人を死なせないように。逃げたいくらいだと思うのに、それが責任だから、と。
それが、二人にとっての償い。世界と、守りたい人を守れなかったことへの——
——じゃあ、僕は? 僕は何ができる? 300年もリーダーでいながら、何もできなかった。混沌の海を抑えることも、死者の数を減らすことも。
今のままじゃ、そう。人類は、遅かれ早かれ滅びることになる。無能な僕なんかじゃ、もう何もできない。
これは、今僕が取りうるラストリゾート——まさに、最後の手段なのかもしれない。
「……わかりました」
ごめん……スノウ、ノエル。一緒に頑張ろうと決めたのに、僕は裏切ろうとしているのかもしれない。脱落しようとしているのかもしれない。苦しみから逃げているのかもしれない。
だけど、もう僕が既に忘れてはいけない何かを失くしているというのなら。
僕が神の力にすがることで、二人が、みんなが救われるのなら。
僕にできることは……——
「……神よ」
そういえば、父さんが死ぬ時に言ってくれたっけ。
自分が守られてると思いなさい、ホープ。 確かにお前のデミ・ファルシ計画によって、何か大きな過ちが起きた未来があったのかもしれない。でも、セラさんがそれを伝えてくれたおかげで回避できたんだろう? もしもまたお前が誤った道に行きかけたら、誰かが教えてくれる。そう思いなさい。大丈夫だから。
ねえ、父さん……本当に? もう、わからないんだ。あの時誤った道に行ったって、誰も教えてくれなかったのに。
だけど、今さらだけど……信じてもいいのかな?
「至高神、ブーニベルゼよ……」
ライトさん。
今あなたがここにいたら、何て言うんでしょうか。
前だけ見てろ、背中は守るって——昔は、言ってくれましたよね。
お前の決断は間違っていないって、……あの夢の中で、言ってくれましたよね?
今はもう、わからないんです。本当に今までの決断が正しかったのか。今からしようとする決断が正しいのか。何をしたって、いい結果に結びつくなんて思えない。自信なんてもう、どこにもないんです。
でも、決断しないといけないんです。みんながみんな、あなたのように守ってくれるわけじゃないけど——僕の背中には、たくさんの人がいるから。こんな僕だけど、頼る人がいるから。守らなければいけない人が、たくさんいるから。
こんな僕でも、腐ってもリーダーだから。正しい判断かどうかなんて自信がなくても、常に決断を下していかないといけないんです。多くの人が救われる可能性を信じて、自分を捨てることも必要なんです。
だから——ライトさん。
今でも、前だけ見てろって言ってくれますか? 決断は間違ってないって、言ってくれますか?
人であることを捨てようとしている僕にも、同じことを言ってくれますか?
もう、あなたの声は聞こえないけれど。どれだけ待っても、どれだけ夢を見ても、あなたの声も、姿も……どこにもないけれど。
ねえ、ライトさん。 例え、声が聞こえなかったとしても。
僕のいないどこかで、あなたが、前だけ見てろって言ってくれるなら。僕の決断は間違ってないって今でも言ってくれるなら。
人であることを捨てたとしても、この思いだけは……消えないでいてくれるのでしょうか……?
——もし、そうだとするなら。
僕は……何も怖くない
「……僕は——神の、駒に」
駄目だろう。こんな風に床に手をついたまま、言うつもりなのか?
足に力を入れて、立ち上がる。倒れそうな身体を持ち上げて、顔を上げる。
『そうです。過去のことも、未来のことも考えない。ただ目の前のことだけに、集中してください』
『……わかった。過去のことも——考えない。自分が犯した罪も、過ちも——今は、忘れるようにする。未来に希望があるかどうかを考えて絶望するくらいなら、考えない』
ごめん、ノエル。そんなこと、よく人に言えたもんだって思う。
『……大丈夫。心は失くして、無心で敵と戦う』
だけど——そう、僕だって、同じようにすればいい。
僕の悩みも苦しみも、誰かの役に立つことなんて一つもないのだから。
無心になれ。僕がすべきことはただ、一人でも多くの人を救うこと。それだけだ。
「僕が僕でいたところで、この世界が救えないのなら」
——覚悟を決めろ。潔く、魂を売り渡せ。
「だとしたら——ブーニベルゼよ。僕は喜んで、あなたの駒となろう」
ようやく意志を伝えきると、機械の声は厳粛なままに応えてくれた。
「よかろう。契約は成立した」
その言葉を聞いたと思った瞬間、目の前が、眩しいくらいの強い光に満ちた。
だけど、不思議と嫌な感覚はない。眩しいはずなのに、目を閉じることもない。逆に心地が良くて、僕の中に積もった何かが洗われるようにさえ感じた。
これが、ブーニベルゼの力なのか。
神の、力——
そしてその内に、その光はすうっと消えていった。
視界には、見慣れた部屋の光景。だけど、いつもとは何かが違う。
「——ではまずは卑しき人の子らに、必要な言葉を伝えよ」
機械の声はまた、僕に告げた。
「必要な言葉……?」
「そなたになら、わかるであろう」
僕なら、わかる。僕なら——……ああ、そうか。
「はい。……全ては、御心のままに」
僕は、ゆっくりとした足取りで自室を出た。
警備兵が当たり前のように隣に付く。さっき感じていたような窮屈さは、何も感じない。いつも早足でせわしなく動いていたのに、今は何の焦りも苛立ちもない。たったさっきまで部屋に入る時にも感じていたはずの、何か強くて黒い気持ちは、どこかへ消え去ってしまった。
あるのは、この何百年もの間一度も感じなかったような、静かで、穏やかな気持ち。
これが、神の存在。神が、そこにいるから。
「ホープさん、今様子をお伺いしに行こうと思っていたのです。……大丈夫ですか?」
いつもの場所に着く前に、話すべき人と出会う。いつもの女性。僕を見上げる。だけど、その表情から何かを読み取ることはできない。ただ僕は、必要なことを言うだけ。
「聞いてくれ。もうこの世界の崩壊は、食い止めることができないんだ」
はっと息を飲む音が、耳にぶつかった。
「それは、大いなる混沌が溢れ、この世界の均衡が崩れ去ったからだ。至高神ブーニベルゼは、この世界を諦め、そして壊そうとしている」
その表情がぐにゃりと歪む。……どうしてなのか、その気持ちを汲み取ることはできない。
そう、心配することじゃないんだ。世界の破壊は、終わりじゃない。
「そんな……じゃあ我々は、この世界は……」
「案ずるな」
「ホープ……さん?」
僕を見上げて、言葉を待っているに違いない。そう、言わなければ。
「ブーニベルゼを……信じよ。世界の破壊は、創造の始まり。神は……我らに新しい世界を創り給う」
そう。それが、僕が言うべきこと。
「この地上を……過酷な環境を生き延びよ。生き延びた強き無垢なる魂をこそ、神は新たな世界へといざなう」
「強い……無垢なる魂……」
「そしてこの世界の終焉の時、神は、解放者を遣わされる。その時に、魂の救済が始まる」
「魂の、救済……?」
「新たな世界には、憎しみも、悲しみも不要だからだ。だから、君は聖主卿となり、人々を導け。忘却の禊のための、巫女と聖宝を探せ」
「聖主卿……? 忘却の禊? 巫女? 聖宝……?」
「僕からは、それだけだ」
それだけ言えば、もういいだろう。僕は、ただ立ち去るだけだ。
「っ! ホープさん……?! どちらへ……!」
「神を……至高神ブーニベルゼを、信じよ……」
ぼ くはど こに い っ た ?
お読み頂きましてありがとうございます。169年前の神隠しのくだりの妄想を、闇堕ちホープで書きました。
ホープが闇堕ちしてなかったのは記憶や感情が曖昧になった後のことであって、その前はやっぱり何かしら闇堕ちしてたんじゃないかなと思いまして。戦闘前のブーニベルゼの話を聞くと、多少ホープも世界を諦めてたのかなと。あれがブーさんなのかホープなのかははっきりわかりませんでしたけど、ホープもそうであるとの妄想です。
妄想のところ
・3人の戦いっぷり。ホープが「人類のリーダー」で、ノエルは「人々の先頭で戦ってた」とは本編で言ってたけど、スノウは?「ホープ行方不明後ユスナーンに移住」とアルマニにあったけど。まあホープが統率、ノエルが前線、スノウは補給にしました。
・スノウとノエルとのやり取り全般的に。お互い徐々に闇堕ちしながら支え合っていたのかとかそういう。
・ノエルが色々言わなかった理由。
・リーダーの孤独
・人工コクーンの名前の経緯とか
・神隠しの経緯。ブーニさんがホープを駒にしたみたいな言い方だったけど、実はホープ側も望んでしまったとか。
・なんで穢れなき魂だけなんだろう→ユールみたいになったら困るとか
・ブーニさんが人を理解して愛でたいといってたけど、ブーニってほんとにそんな動機で動くのかと思ったので、少し改変してます。
・なんで急に地上の人達がブーニベルゼとか解放者とか言い出したのか疑問だったので。ホープを引き合いに。
難しかったところ
・何と言ってもファブラ神話。文字を追うだけで頭痛がしそうに。
・ブーニベルゼの口調。我とかそなたとか、使いませんしw ファブラ神話と合わせて自分の文章が電波っぽくて嫌ですw
・こんなに真面目なスノウを書いたのは初めてじゃないでしょうか。スノウっぽくできているか自信がありません。
・地味にノエルとホープの会話。癖で、ノエルくんって打っちゃいます。あとLRで呼び捨てになったけど、名前以外は敬語だったのか?
※アルマニ設定も盛り込んでるはずですが、なんせ斜め読みなので、間違ってるところもあるかもしれません。※
改めてお読み頂きまして、ありがとうございました!
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